
セルゲイ・エイゼンシュテインは、「ディズニー」(1940-41)と名付けられたアニメーション論において、『メイク・マイン・ミュージック』(1946)内の「くじらのウィリー」を評してこう言っている――ディズニーは成熟した。
この言葉は賞賛ではない。エイゼンシュテインがディズニー作品に見出してきたある特徴が消えたがゆえの、嘆きのような言葉だ。そもそもエイゼンシュテインがディズニー作品に引きつけられたのは、その世界が、擬人化された動物や動物化された人間の存在を許容する場所だったからだ。エイゼンシュテインの目からすれば、バンビは人間であり鹿であった。動物は人間であり人間は動物であった。われわれの住む現実世界には決してありえない、人間と動物とが相互浸透しあった状態にエイゼンシュテインは憧れを抱いていたのである。どのようなかたちをもとることができるというこの柔らかく温かなアニメーションの可能性を、エイゼンシュテインは愛していた。
しかし、エイゼンシュテインは、第二次大戦後のディズニー作品からはその性質が失われていったように感じた。登場するキャラクターたちはみな、人間になってしまったと考えた。ウィリーは偽りのクジラであり、演じられたクジラでしかない。「ディズニーは成熟した」というエイゼンシュテインの言葉は、嘆きのこもったものなのである。
アレクサンドル・ペトロフの『おかしな男の夢』(1992)が描き出す純粋無垢な楽園は、アニメーションにとっても楽園であった。エイゼンシュテインがアニメーションにみた可能性が存分に発揮されていた。木には女性が絡み合い、水から子どもが生まれ、子どもは鳥になり、その子どもを受けとめる手は樹木になる。死にゆく人間は太陽に消えていき、彼の残した杖は樹木になる。人間と自然は溶け合っている。動物や自然は人間であり、人間は動物であり自然である。アニメーションは純粋無垢に、奔放に振る舞い、あらゆるものになる可能性を残していた。
このような描写をみて、ドストエフスキーの原作に親しんだ人たちは、その的確さを誉め讃えることだろう。原作にはまさに人間と自然との間で交わされる交流の様子が描かれているからだ。「彼らはあたかも同じ生きものと話すようなあんばいであった。それどころか、彼らは樹木と話をしたといっても、おれの考え違いではあるまい!」(「おかしな人間の夢――空想的な物語――」『ドストエーフスキイ全集15 作家の日記 下』米川正夫訳、129頁。)彼らは人間と動物、自然を区別して考えず、あらゆるものを愛する。人間と自然は、互いにつながりあっている。そこに暮らす人々は、決して別の生活を持つことがない。自然との関わりの中で、自分を生きるだけだ。そして自分を生きることは純粋無垢な世界全体を、自然や動物をも含んだ世界を生きることでもある。そこはすべて浸透しあった理想の世界であり、人間は必ずしも人間である必要はなかった。
しかし、「おかしな男」はその楽園に堕落をもたらす。堕落のきっかけとして、原作にはない一つの設定をペトロフは導入している。「おかしな男」は冗談のつもりで仮面を被って別人を装い、女を驚かせる。戸惑いの表情を浮かべる女性は、やがて自分の心の中にかつてなかった感情の高ぶりを感じ、おかしな高笑いを上げながら走り去る。そこから堕落の歴史が始まるのだ。
堕落の原因として仮面を選んだペトロフの選択は正しい。仮面を被ることは他人を偽ることであり、役割を演じることである。それは嘘の始まりだ。そして理想の世界は現実化する。仮面は人間と自然とのあいだに壁を設け、人間はもはや仮面をかぶることでしか動物になることができない。役割と本人は分離していく。アニメーションは他人そのものになれるのに、現実はずいぶんと制約がきついのである。そんな世界では、人間と動物が一体化し互いに愛し合えると信じる男は「おかしな男」とレッテルを貼られ、狂人扱いされてしまうにちがいない。
牛の頭蓋骨を被った男が皆に迫害されるシーンは興味深い。仮面を被る男とは、アニメーションの楽園に存在してはいけないものだからだ。仮面の存在はアニメーションを現実に近づけ、アニメーションから純粋性を奪う。だが、仮面がもつその恐ろしい力ははじめのうちは気付かれず、純粋性が失われた今になってその深刻さがわかる。しかし、もはや後戻りはできない。 ペトロフは『おかしな男の夢』を最後にアニメーションの楽園を堕落させていく。『おかしな男の夢』はアニメーションとして傑作だ。しかし、ペトロフがアニメーションの傑作をつくるのはこれが最後のこととなるだろう。彼の作品はこの後、演じることが必要とされる実写映画のような場となっていくからだ。
もはや後戻りはできない。ペトロフ作品は人間が支配する場となっていく。DVD「アレクサンドル・ペトロフ作品集」の特典映像のインタビューで、ペトロフが自作について語っている。そこで、『おかしな男の夢』に続く作品である『水の精―マーメイド―』(1997)について、彼はこう言う――水の精も、苦しむべきだ。水の精という存在は、人智を凌駕する超越的な力に対して与えられたはずの擬人化=擬動物化の像であったはずなのに、この作品ではただの人間に堕落させられている。
もはや彼の作品に人間であり動物であるものは存在しない。ヘミングウェーの『老人と海』で描かれるカジキマグロは、老人の想像力によって「兄弟」となっていた。人間と動物とが柔らかく浸透しあっていた。しかし、ペトロフの『老人と海』(1999)は、鮫を描くのと同じようにしてカジキマグロを描く。「兄弟」であったはずのその魚は、単なる敵として、人間の世界から遠ざけられていく。想像力と共感の物語であったはずのヘミングウェーの『老人と海』は、ペトロフ版においては単なる人間ドラマに堕してしまった。その海は、人間たちが演じる舞台に過ぎないのである。人間は人間。自然は自然。他人同士。なんと無関心な自然描写なのだろう。両者を分ける境界に、曖昧さは微塵もない。『春のめざめ』(2006)では、牛と人間は殺しあう。もはや和解の余地はない。
ペトロフの世界はアニミスティックなものでなくなった。『水の精』以降、ペトロフ作品からは曖昧さの感覚が消えた。描かれる闇の質が決定的に変わった。『雌牛』(1989)や『おかしな男の夢』に確認することのできた濃密な闇――光を当てようともそれが吸い込まれてしまい、一体何が存在しているのかわからないような濃密で凶暴な闇――は消えた。『老人と海』の闇は、登場人物が演じることを邪魔することはない。初期二作を支配していた光の微細な揺らぎも、影の戯れも、姿を消している。
人間と人間以外との相互浸透性を失ったペトロフ作品は、もはや動いているのに止まっている。自然は死んでいる。『春のめざめ』の冒頭のシーンで、申し訳程度にその一部を揺らす木の姿に書き割りのような死んだ自然を感じてしまったわれわれは、こう断言していいのだろう――ペトロフは成熟した。だが、その成熟はアニメーションにとって、いったいどれほどの意味をもつのだろう?
(2007年10月12日)
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