イドリーミング
 土居伸彰
Nobuaki Doi, “Daydreaming: Don Hertzfeldt's Everything Will Be OK and I Am So Proud of You"
  
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 イメージフォーラム・フェスティバル2010にてドン・ハーツフェルトが日本で初めて本格的に紹介されることを祝して、期間限定でハーツフェルトの近作についての評論を掲載します。(土居伸彰)



『あなたは私の誇りよ』(2008) (c) bitter films

 僕らの存在は巨大化したり縮んだりする。あるときには自分と世界が等価であると思ってしまうほどに肥大化するし、またあるときにはなんてちっぽけなのだとも思う。幸運なことに僕らの大多数は日々の暮らしを戦争や貧困や大病などに悩まされることなく過ごす。しかし、そういった状況にある人からすれば極度に幸福な暮らしをしている人間であっても、日々、普通に暮らしているだけで、特に何の理由もなく不安感を抱えてしまうし、アイデンティティーは不安定になる。人は大きいし小さい。これは矛盾ではなく両方ともが正しい。見方によるのだ。
 ハーツフェルトの作品を観るときに感じるのがまさにその両方だ。「なにもかも大丈夫」Everything Will Be OKのトリロジー(今はまだ二作しか完成していないが)で描かれるのは、ビルという主人公の主観的な世界であり、彼の目に映る、徹頭徹尾彼の世界。しかし、彼がそこで感じとるのは、彼がそのほんの些細な切れ端でしかない、あまりに巨大な世界の存在だ。

 彼のそんな認識は、第一作目『なにもかも大丈夫』Everything Will Be OKにおいて自分の日常にふと疑問を感じてしまったことから始まる。ビルは、自分の生活のほとんどの時間が、きわめて平凡で散文的な日常の行為の繰り返しのうちに構成されているということにふと気付くのだ。しかし彼は相変わらず淡々と日常を過ごしつづける。ちょっとしたことに興奮したり幻滅したりしながら。その一方で、事態はゆっくりと進行していく。歯茎から血が流れ、歯が抜けおち、目覚めるとダルいし、世界はグニャリと曲がってみえる。
 人間は現実そのものに触れることができない。感覚器官が発する電気が神経をかけめぐり、脳がそれを判断して、その人に自作のこしらえものの世界を見せる。それは視覚や触覚だけではなく、嗅覚も味覚も触覚もある、映画以上にとびきり豪勢なやつだ。それゆえ僕らの世界はみなそれぞれに違っている。そのはずなのに、なぜか僕らは同じ世界を生きているという幻想を抱く。何か特別なことが起こらない限り、その幻想は疑われないままだ。
 ビルに起こったのはまさにその「特別なこと」。脳を冒された彼の世界は次第に崩壊していく。ビルはライオンキングのスリッパを履いて空を飛び、バス停へと飛んでいく。そこで待つ人は牛の頭をしている。彼の目から発せられるビームは怪物たちを破壊する。それは僕ら「正常な」人間にとってはありえるはずもない異常な事態だが、しかしビルにとってみれば世界はそれしかない。彼がそこから決して逃れられないその世界は、彼以外にとっては今やあまりに遠くて異質だ。医者の言葉がとどめを刺す――彼は死ぬのだ。それは、彼が自らの有限性をはっきりと認識する瞬間だ。
 彼は死の淵からなんとか回復するが、『あなたは私の誇りよ』I Am So Proud of Youにおいて、今度は自分の内側に潜むもうひとつの「ままならなさ」に人生を脅かされる――遺伝だ。彼の家族や親類たちはみなどこか肉体的・精神的な瑕疵を抱えて生きており、不慮の死を遂げる。列車にはねられ、火事に焼かれ、見捨てられ、狂気と孤独のうちに死ぬ。そんな家族の系譜は、死を身近に感じるビルにとっては、自分の運命とも重なりあう。彼の同僚が言うように、「遺伝ってやつは本当に厄介なのだ」。
 自分でないものはあまりに多すぎる。僕らの身体は細胞を入れ替えるので、過去は忘れられていく。過去の自分と現在の自分、その関わりが分からない。彼は自分から幸福だったかつての自分のアイデンティティーが奪われてしまったと感じる。ビルにとって、確固たる自分はどんどんと不確かになっていく。自分ではコントロールの効かないなにものかが、自分をどんどんと虐待し、蝕んでいく。


『なにもかも大丈夫』 (c) bitter films

 有限な存在である僕たちは、覚醒しながらにして夢を見ているといえるかもしれない。胡蝶の夢の例を引くまでもなく、僕たちは自分が現実に生きているのか、それとも自分が誰かの夢のなかの存在なのかが分からない。脳が作り出す世界のなかにしか生きることができない僕らは、世界のすべてを見通せない。僕らはまずいつか必ず死ぬという意味で有限だ。生きているそのあいだであっても、世界のたった一部しか占めることはできない。(宇宙のことを考えればなおさらだ。)僕らが自由に動かすことができると信じているもの――僕ら自身の身体――でさえ、ときおり僕らの管理下を離れる。僕らは人生の三分の一を眠って過ごすし、覚醒しているときでさえ無意識や生理的なものは僕らの意志に関わらずやってきて、僕らの意識を翻弄する。なんとまあ、僕らの存在は限られていることか。僕らはみな、何か巨大なものに呑み込まれることを運命づけられている。
 ハーツフェルトの作品では常に、ちっぽけな存在(多くは人間だ)が巨大な何ものかに不条理なほどに翻弄される。彼のフィルモグラフィーを見渡せば『人生の意味』The Meaning of Lifeを境に何かが起こったことを容易にみてとれる。しかし、おそらくそれは『ビリーの風船』Billy's Balloonから始まっている。子どもたちが風船に虐待されていくだけのこの恐るべき作品で、僕はクスリとも笑えない。だからといって、くだらないと唾棄することもできない。限りなく的確な世界認識の凝縮図をみてしまった気がして、背筋に冷たいものが走る。そこから先の作品では同じテーマが繰り返される。『リジェクテッド』Rejectedではドン自身が精神的に追いつめられていき(もちろん作品の中だけの話だ)、最終的には愛着あるキャラクターたちはフレーム外からの力によって呑み込まれて無に帰す。『人生の意味』では宇宙スケールの巨大な時間と対比されて、無同然の存在である個が描かれる。彼は繰り返し、生きるということがあまりに圧倒的であるということを描いている。
 「なにもかも大丈夫」シリーズの二作は、人生自体が時に見せるひやっとするような冷酷な感覚を持っている。この17分と22分の作品は、なんたるスケールを持っていることか。ハーツフェルトの愛するキューブリックの『2001年宇宙の旅』と比肩しうるような――この作品は150分ほどの長さだ――巨大なものを描いているような気がしてしまう。人の外に広がる外的な宇宙と、人の内面に広がる内的な宇宙の両方だ。
 そんな離れ業を可能にするのは、彼のシンプルかつ余白の多い描画スタイルだろう。自らを「偶然アニメートすることになった映画作家」と形容するハーツフェルトは、アニメーション界においては異様なほどにドローイングに対して割り切った態度を取る。彼は自分の絵それ自体にそれほど価値を持たせず、「機能的」なものとして考えているような感覚がある。彼のシンプルな絵は、観客が自らをそのキャラクターに投影するための媒介として機能すればそれで充分なのであり、美的な価値を担わされない。彼は一般的なアニメーション作家とは、アニメーションに対して見いだしているものが違うのだ。
 だが、本当はハーツフェルトの方こそが、アニメーションの本質を突いているのではないか。アニメーションにおいて、僕らは実際には存在しない何ものかを見ている。これは僕の敬愛するノルシュテインの受け売りだが、アニメーションにおいては、一本の線が宇宙全体として認識されることも理論的には可能なのだ。僕らは、そこに実際に存在するものを通じて、本当は存在しないものを観る。僕らはアニメーションという白昼夢を見るのだ。
 エブリマンとしてのキャラクターに、黒や余白が多い画面づくり。ハーツフェルト作品のそんなヴィジュアルは、観客側に過剰な補完作用を喚起する。作品自体が触媒となって、僕らは自分自身の生についての白昼夢さえみはじめてしまう。僕らは現実を生き日常生活を過ごしていて完全に覚醒しているあいだであっても、白昼夢を見る余地を残している。僕らの思念は油断すれば世界それ自体から離れて、首を伸ばして過去や宇宙の果てについてぼんやりと空想する。僕らは覚醒しながら夢を見る。ハーツフェルトのアニメーションをみながら、僕ら自身の生についてぼんやりと考えはじめる。ハーツフェルト作品を見ながらみはじめる白昼夢は、僕ら自身の生を多分に反映した夢だ。いやむしろ、限られた世界(つまり夢のように不確かな世界)にしか生きられない僕ら自身の生そのものの夢だ。 >2
土居伸彰「デイドリーミング――ドン・ハーツフェルト『なにもかも大丈夫』『あなたは私の誇りよ』」(1)
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