I Can Hear the Heart Beating as...

実は見逃してしまってはいけないことなのに、あまりに慣れすぎてしまってそれについて考えてしまうのをやめてしまうことがある。その存在に気づくのは、それがやってきたときと去るときだ。
心臓の鼓動があまりに速くあまりに大きなその女の子は、その大きな音に怒りをぶつけにくる隣人たちに、「これは鳥の心臓なの……この体は私のものじゃないの……だから心臓は速く鳴りすぎるの……私は鳥なの」とはばたくような仕草をみせながら答える。隣人たちは彼女をおかしな人だと見なして去っていく。
少女は家にこもる。少女は自転車を一人走らせる。鳥に餌をあげる。隣人たちとかかわらない。しかし、騒音まがいの大きなその音も、それがずっと続けば慣れてしまうものだ。彼女の鼓動は次第に隣人たちの世界のリズムとなってゆく。鼓動は時に小さくなりもするが、常に一定のリズムで聞こえてくる。彼らは互いに孤立しあいながら、それでも、少女のリズムでつながっている。この作品で驚くべきは音楽で、いつの時代もどの作品にもふさわしい曲をつくりつづけるノーマン・ロジェは、少女の心臓のリズムに合わせて音楽を展開させていき、いつしかわれわれさえもそのリズムに巻き込まれていく。
少女は、次第に自分の体に慣れていく。彼女はにこやかに空を見上げる。その顔に浮かぶ笑みには誰も気づかない。でも、そんなことにはおかまいなしに、彼女は自分の居場所を見つけたから、そこへと去っていく。ある日、少女の背中にはつばさが生え、はばたいて鳥になる。ついに、心と体の一致する世界へと旅立ったのだ。彼女は、「みながそうしたいと願うようなやり方」で、去っていった。この不幸なお話は、かくして見事にハッピーエンドを迎える。
しかしそのとき、隣人たちを律していたリズムは消えてしまう。知らないうちにその鼓動のリズムで暮らしていた人々は、日常に乱れを生じさせる。でも彼らに原因はわからない。ナレーターが優しく語るように、誰かが生まれようが死のうが、大抵はわからないものだからだ。でも、違和感くらいは感じているらしい。当たり前の存在は、やってきたときと去るときに気づかれる。
この作品は、キャロライン・リーフの『ストリート』(1976)とウェンディ・ティルビー&アマンダ・フォービスの『ある一日のはじまり』(1999)を思い出させる。NFBが絡んでいる女性作家のものだからか? たぶんそれだけではない。
ただ通りすがりに肩をぶつけてしまった人が死んでしまう。自分に責任はないけれど、彼の死は、世界が、自分が予想もしていなかったほどに広く、しかもそのすべてと自分がつながっていることを突如として思い出させる。あまりに大きなその世界から逃れるために、少女は部屋へと引きこもる。でも部屋に閉じこもったところで、結局はそのつながりから逃れることはできない。それに気づいた少女はブラインドを再び開けはなつ(『ある一日のはじまり』)。
自分の瀕死を日常にして、自分の呼吸音を家族のリズムにしていたおばあさんは、死んだ後になってこそ存在感を強めたので、少年は、おばあさんがまだもしかしたらいるのではないかと疑ってしまう。だからあれほど待ち望んでいた、自分の部屋をもらえるチャンスに飛びつかない。おばあさんの部屋に弟を追いやってしまいたい少年の姉は、そんな少年の怖れをからかう。彼女の出すその声は亡霊の声だ。そのとき、少なくとも二人の心の中には、おばあさんは還ってきている(『ストリート』)。
どちらの場合も、去ってしまった人たちは、何かを残していった。その受けとめ方はひとそれぞれだけれども。『ハッピーエンドの不幸なお話』もまた、残された人たちについての物語でもある。エンドロールは不思議に思われるほどに長く、残された人たちの日常がその合間に挿入されていく。ただし、彼らが少女の死をどのように受けとめるのか、それは想像するしかない。ともかく、少女の鼓動が止んでも、世界は続いていく。世界に残った人たちそれぞれが動く心臓を持っているのだから、鼓動はすべて止んでしまったわけではない。
『ハッピーエンドの不幸なお話』は、みなそれぞれにもっている違いを抱きしめる作品だ。その違いは特別扱いされるようなものではなく、互いに上であったり下であったりすることはない。ただ、すべての人がそれぞれに違っているというそれだけのことだ。ただし、鳥になって去っていった少女のように、図らずも「特別な」ものなってしまうものもある。不幸と幸福を共に持ち合わせた彼女の人生は、われわれの日常に少なからずの波紋を残していく。いってしまった人の鼓動を思い出すことは、その人自体の存在を思い出すことだ。でも同時に、自分がそれとは違う鼓動をもっていることを思い出すことでもある。残された人々であるのは観客であるわれわれもかわらない。われわれもまた、自分の鼓動を思い出す。
自分の鼓動ほど当たり前のものはない。自分の鼓動はやってくることも去っていくこともないから、なかなか気づかない。生まれる前のことも死んだ後のことも、自分ではよくわからない。だが、自分の鼓動がやってくるときには、母親はそれを感じているだろう。自分の鼓動が消えたときには、生きているあいだにつながっていたすべての人がそれを思い出してくれるだろう。自分の鼓動は、人がその鼓動を感じたり、思い出したりすることでその存在が確かめられる。自分の鼓動は他人の鼓動を思い出させ、他人の鼓動は自分の鼓動を思い出させる。
彼女は去って、残された人たちそれぞれに鼓動を思い出させる。残されたわれわれは、なんとか自分の鼓動でやっていかなければならないから、そのためにも自分の鼓動を確かめる必要がある。でも、確かめられたその鼓動はどうもみんなと少し違うから不安になることもあるだろうし、恥ずかしくなって、時には閉じこもりたくもなるかもしれないが、みんなの鼓動だって一様ではないのだから、そんな必要はきっとなく、行くべきところに行けばよい。(土居伸彰)
作品DATA
Tragic Story with Happy Ending(2005)
監督:レジーナ・ペソア(Regina PESSOA)
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