司会、進行:山村浩二、土居伸彰、イラン・グェン
参加者合計73名(主催者4名含む)
(トークは、ほぼ全てを掲載しますが、一部まとめて箇条書きになっている箇所もあり、ですますが不統一になっています。ご了承下さい。)
写真:和田 淳

山村
アニメーションズの今後の活動についてはまだ具体的な形が見えていません。サイトで評論活動を始めましたが、書き手が土居君一人に偏っているという事もありまして、何かアニメーションズに寄稿いただけるような方がいたら是非声をかけて欲しいなと思っています。今回学生の方もかなり参加いただいたのですけど、個人作家が一人で学校を卒業してしまうと、なかなかこういう横の繋がりを見つけづらいというのがあって、作品を作っていく人たちの一つのコミュニティーになればいいなという思いもあってこの会を作りたかったのです。ただアニメーションズを一つの制作集団にはしたくないんですけど。作家の皆さんは最終的に作品で物を言うしかないわけで、作品をどんどん作って行ってこの世界を活性化するしかないと思っていますし、僕もずっとそういう姿勢でやって来ています。ただそこのところで、やはりどうしても孤独と向き合う作業ですし、色々な情報が欠落していて、きちっとした教育もまだ成り立っていないというところもあって情報不足というのは非常に大きいです。それは評論のほうでも言えるんですけど、きちっとした資料が少ないというのが現状ですから、その辺はなるべくみなさんと分かち合いたいと思っているんです。ですから僕らも勉強したい。勉強会っていうのは何か一方的にお話を聞く会ではなくて、みなさんからも色々情報公開をしていただいて、もし今後発展出来れば、その会毎にいろいろな方が中心になって次の企画をしたり、何か研究発表をするような勉強会になる、そういう風な夢がぼくの中にあります。
ジタルとアナログ

土居
今回の勉強会は16 mmでフィルムを観るということなので、制作環境や上映環境がひとつの大きなテーマになると思います。フィルムとモニターの話などしましょうか。
山村
プロジェクションの問題だけでデジタルとアナログを分けるのは間違いではないか。離散的な値、二進数での情報伝達に対して、多元的な無限の広がりがアナログです。画像を作るところ、撮影する段階、そのあたりでデジタル的なコンピューターが介在して来るので、デジタルとアナログの比較は単純な対立項目にはならないと思いますが。
中田
プロジェクションの問題に伴いまして、画面作りに関する質問です。1ピクセル以下の画像を作る必要はあるのでしょうか?決して1ピクセル以下のものを作る必要がないという意味の発言ではありません。デジタルだと横線に弱いので1ピクセル以下の線を真横に引けば消えてしまう。実際にはそういった限界があることを意識されないで制作されている画面作りが意外と多いと思いますが。
土居
短篇アニメーションの現状として、上映の質が悪いというのはずっと気になっています。フィルムでも、今日のいくつかの作品みたいに、色が変わってしまうということはあります。でも、ドットが見えてしまう、ということはないですよね。
山村
質が全く違う。劣化の仕方が違う。デジタルは情報の欠落を防ぐために二進数に置き換えている。スチールで見た場合には画面、ビジュアルが大切だが、フィルムだと無限に近いニュアンスが出せる。けれど物質という宿命のため感光材の劣化が起こる。(ここで感光乳剤の説明。4層の色、表面の青から劣化して行く。)絵を作る段階で、デジタルソフトで作る場合1ピクセル以下はどっちかに還元されてしまうという問題はある。ですが最終出力を考えつつ、自分が作りたい物に近づけて行く事を意識することが大事。
土居
ハイビジョンでの上映が普及すれば、フィルム以上に綺麗に見えるようになるのでしょうか。このまま技術が進んでいくと、人間の認識のレベルを超えた情報量を持ってしまうらしいのですが。
山村
いまNHKが開発しているスーパーハイビジョンは、いままでのハイビジョンの4倍の解像度で音は22.1チャンネル。そこまでなって来ると絵で描くアニメーションがどこまで機能するのか疑問。大きなメディアの変換が起こるとそこでの表現は変わる部分はあるが、画像を作る上でのスキルだけの問題だと思う。僕は最終的なメデイアはあまり意識しないで考えています。自分が作りたい画像をベストな状態に伝えてくれる乗り物が、メディア。だからメディアの方がうまく発達してくれればいいわけで、最終的にどんなメディアに乗っても自分が伝えたいものが明確ならいいと考えています。映像は最終出力を作家が選べないですから。

フトウエアを使う
石
株式会社WOWの石です。
アニメーションの制作に関しての話ですが、最近のソフトウエアでは鉛筆の質感をかなり再現できる様になって来ている。手書きアニメーションが完全にデジタル形式になって行く可能性があると思う。そういう流れになっていくのではないか?
山村
大きな流れはそうだと思う。産業面では鉛筆のニュアンスは邪魔な場合が多い。けれどペンとインク等で描いた味わいなどは擬似的なデータでどこまで出来るのかは、今の段階では疑問がある。物質性と関係のない所であくまでプログラムで作られている。物質を超える人間の認知を超えたような段階の数値のプログラム、画像や音が、今後出来て来る可能性はある。そうなると問題は複雑になるが、作る段階で何を作者が感じながら作るかが重要だと思う。紙や鉛筆と対峙することは現実と対峙すること。湿度や気温等を肌で感じながら作っていく。色の問題もあり、パソコンの中で例えば1,677万7,216色の中から人間が色を選ぶとき、感覚的に選ぶ事ができるのか? 僕は油絵を経験したのでわかりますが、現実の色には染料や顔料などの物質が発している基準がある。そこから物質の光の輝きの基準を持つことが出来る。コンピューターだとモニターの中だけでしか考えられないので、自分がどこに色の基準を持っていけるか疑問に思う。最近のアニメーションは、色の面で、基準になる美や意識が何も考えられていないのではと感じるものが多い。
土居
パソコンのない時代だと、色だけではなく、動きや構図、そして照明などにも気を使わなければならなかったと思います。今では必ずしもそういったものを気にしなくとも、映像が作れるようになっています。たとえば、イワン・マクシーモフを一つの例として挙げると、彼の作品は、パソコンを導入してから、画面の細部まで目がいっていないものになっているように感じます。あと、僕が「電子切り絵」って言っているような、切り絵のモチーフを取り込んで、コンピュータ・ソフトに勝手に動きを付けてもらっているものも多いです。(補足:結果として、世界中のいろいろな人の作品で、同じリズム・同じ質の動きがみられるようになっていて、僕はそれが非常に恐ろしいです。)何も考えなくても、動いてしまうし、発色もしてしまう。もう少し意識的になった方がいいのかなと思ったりしますが、どうですかね。
山村
体制的にはコンピュータで滑らかな動きのほうが受け入れられているが、想像力の欠落というところで危機感を感じます。それはデジタルだけでやっていると、モニターだけで確認し全部を作っていくことになるので、最初からイメージの中で画面全体を発想しながら動かしていくものとは違うと思う。
今日観たキャロライン・リーフのような感覚は生まれにくいと思う。
石
短編アニメーションを広く広めたいなら作品の数が必要だと思う。手書きの場合作業量が多く時間もかかるがコンピュータの場合だと作業が楽になった。
そう考えると、コンピュータ、デジタルで作業していく方向もあるのでは?
土居
それはそう思います。意識的に選択していくことが大事になってくるのではないでしょうか。最近僕がブログでひとりで騒いでいるドン・ハーツフェルドという作家がいますが、彼は35mmフィルムで撮っていて、色はセロファンで付けていて、キャラクターも原始的なマッチ棒タイプのキャラクターを使っています。でも、彼は別に反時代的にアナログな技術にこだわっているわけではなくて、編集や音付けの作業はコンピュータ上でやっている。微視的なタイミングを扱うには、その方がいい、と言っている。彼が言っているのは、コンピュータによって選択肢が増えたのだ、ということ。その中から、どれだけ意識的に選択するか、それにかかってくる、と話している。選択することの重要性です。これは現在制作するにあたって、すごくたくましくて、良い態度だと思う。
山村
僕も撮影や編集、合成はデジタルでやっています。その部分ではアナログには戻れないと思っています。創作じゃない部分で気を使うことが多かった。フィルムで撮影する時は一枚の絵を撮るのにホコリを気にして撮り、黒い画面を作るのにも光が反射しないような吸収する黒を使って黒い絵を作り、均一に光を当てて『黒』を撮る訳です。そのように如何に一枚の画面を緊張感を持って作るかというフィルム撮影の体験をしたことは良かったと思っている。自分の中で基準を持つことが出来た。デジタルを造る中でも、色や動きの中で自分が確かだと思える基準を持っている作家、作品はいい物として残っていくという気がします。

画サイトについて
倉岡
僕はフィルムで観たことがなく今回が始めてで、いつもはDVDで観る他、YouTubeに頼っている。画質は荒いが、見つけやすく、日本で観れないようなものが観れる。動画サイトではフラッシュ等のプログラムでやっているので双方向性が生まれる。ボタンで評価するとかコメントを入れたり出来る。ただ観るだけでなくこちらからも意図的に参加出来ることもあり、動画サイトに可能性を感じていて、面白くなっていると思いますが。
イラン
先ほどの話とも繋がる気がします。すごく間口が広くなり便利になって、溢れている映像を簡単に観ることができる様になった。さっきの上映のトラブルがあって思っていたが、作ることも観ることもどれほど大変だったか。観ることが出来ること自体に価値があった。この作品を観た、ということにまず発見があった。創作の中での物質の戦いと、観る人、届ける人たちにとってもちゃんと届くこと自体も一つの事件だったわけです。それがだんだん、悪くいえばどうでも良くなっている。そこから観る物の価値も変わらざるを得ない。
土居
そうですね。価値観もそうですし、作品自体の受容についても、小さい画面と大きなスクリーンではまったく違う。今フィルムセンターでやっているカナダ・アニメーションの特集でパテルの作品を観てびっくりしました。マチエール自体が語りかけてくるような迫力がある。小さい画面で、粗い画質で見ても、そこまでは伝わってこない。DVDでもダメ。今、アニメーションの鑑賞体験は確実に変わってきています。そうなると、どうしても忘れられてしまうものがでてくる。たとえば、物語とは関係ないところで、細部というものがどれだけ人に語りうるか、ということが忘れられてしまいがちになる。物質性や肉感性が消えつつあることを僕としてはとても危惧しています。でも一方で、倉岡さんがおっしゃっているようなプラスの側面もある。またドン・ハーツフェルドの話になってしまいますけど、彼は『Rejected』という作品がアカデミー賞にノミネートされて、YouTube経由で人気が爆発しました。短編アニメーションの世界で珍しく、作家としての活動だけで生活できるくらいの成功を収めている。だから、上手く使える人もいると思います。
しかし、動画サイトについて、「観る人しか観ない」という状態もあると思います。ある一定の層以外には、広がらない。
イラン
無限の可能性があるかもしれない。未知数ではありますけど。一つの方向で非常に浅い範囲でのどこまでもいけるが、失われつつある一つの感覚は、一本の線のどこまでも続く物ではなくて、いろんな方向性、多様な物がどんどん需要できなくなる。
山村
上映というのは空間、時間を共有して観るという同時性がある。動画サイトは孤独に観るもので、観た時の共感を分け合うために双方向性のコメントが有効になってきて、たぶん上映体験で共感していれば、無言でも価値を共有できたが、「いいね」と一言書き込まないと伝わらない。それは一つの電子メディアのありかただと思うし、もう一度それを色々な人が確認出来るということもあるので、形態が変わって来たのかなとは思います。
イラン
音楽も一人で聴く音楽と、コンサート等で、みんなで聞くものもあります。
山村
はい、(プライベートとパブリックの視聴の)両方とも人にとって必要で、どちらかだけになるとは思わないし、動画サイトとも技術革新もこれから進むし、大きな可能性を秘めている。ただ、もともとフィルムで作られた作品を動画サイトだけで観て、観た気になられると、いい物を知っているだけに、残念に思うということはあります。
うこと

佐野
今日勉強会に参加させていただいて一番気になっているのはいろんな立場の人、作り手、批評家、研究者、配給会社の人、そうしたいろんな人たちが集合して、短編アニメーションの浸透、発展のために出来ることは何かということを大枠な問題意識ですが、その点について山村さんのお考えを聞かせて下さい。
山村
短編作品の制作本数は商業的に作られている物に比べて数も少ない、上映の機会も少ないのが問題。今動画サイトの普及のせいだと思うが、上映会は減っている。こちらのホールも、あんなに立派な映写機があるのに年に2〜3回しか使う機会がないそうです。16mmの映写の免許はだれでも2日の講習でとれるものです。地道な上映活動をするような団体が是非もっと出て来て欲しい。やはり文化的な位置づけをしていくということで映画祭が有効なものだと思っています。時代のポイントを作っていくために映画祭が非常に大事。作家としては映画祭に出していくことが貢献としては大事だと思う。
[質問のポイントと答えがずれていました。ここに補足して答えます。短編アニメーションが生み出される環境作りを立場の違いから考える事で、より良いものにしていき、いい作品が生まれ、見られる機会を増やしていく事が出来るのではというのが僕の考えです。山村]
イラン
大きな違いといえば映画祭のような場での作品の上映とネットで流される物の違い。上映すること自体が作品の意味付けを行う事になる。
ネットでどんなに簡単に観せても、それが評価になったり意味付けにはならないのではないか?
山村
評価という部分で評論の問題も出て来て、映画祭とか評論活動というのは一つの評価枠だと思う。映画祭で賞を与える、評論である特定の作品を取り上げるということは、逆にそこからはみ出していく、取り上げられないということはダメな作品、というような判断も出て来てしまう。映画祭で賞を取れば価値があり、とれない物は価値がない、みたいになっていく。当然そういう部分は出て来てしまうが、評論や映画祭では匿名性ではなく、選ばれた審査員が名前を連ねて最終的にサインをしてその評価の責任を負う。僕も年に何回かそういう審査会に出ますが、非常に審査員同士の価値観をぶつけ合いながら作品作りと同じような気持ちで、最終的に選ばれた物が納得いくものになると、創作とは違うがある喜びがあるものです。そういう点で、不特定多数の無責任な投票でYouTubeのように人気ランキングとか、観客賞のようなものとは作品の評価の意味が大きく違うと考えている。色々な映画祭によって特色があるので、それぞれがどのように受け止めるか。誰がどのように評価した作品なのか、それに対してどう思うか、というところで見る側も意識することが必要。価値を作っていくという部分での責任の所在の問題だと思います。
土居
たくさん作品があって、映画祭もたくさんあります。僕は個人的に、足りないものは偏った意見だと思っています。(追記:誤解を招くといけないので、もうちょっとフラットな言葉でいえば、ある一定の一貫したパースペクティブを持って、作品に対して接するという態度のことです。)僕の書いているものは間違いなく偏ってます。でも、評論をやっている身として、自分の偏りに責任を持つし、その偏りには一貫性を持たせているつもりです。だから、反発とかしてもらっていいと思いますし、絶対に鵜呑みなんかしちゃいけないと思います。(追記:違ったパースペクティブからの見方もある、ということです。)だから、もっといろんな観点から語る人が出てくればいいなと思っています。
あとは、Animationsの現状として、情報発信という点では弱いです。そういうところも含めて、色々なところからアプローチをかける機会があると思います。今回の勉強会で、制作者以外の方にも参加を呼びかけたのは、短篇アニメーションという分野に、いろいろなかたちでアプローチをしてほしいからです。
動のゴール
今井
京都からきました今井です。アニメーションの研究をしています。山村さんは、こういう集まりでよく閉塞感という言葉を口にされますが、閉塞していることが、ある基準があってそれに対して比較の上で閉塞していると言われているように聞こえる。核になる時期が基準にあって、それに対して現在閉塞しているのか、あるいは世界的な基準からいって日本は閉塞しているのか。もし何かの基準に照らして閉塞しているとおっしゃっているならば、その比較の対象を聞いてみたいと思います。
もう一つはこのようにアニメーションズという組織を立ち上げられて、このような色々な活動をされているわけですが、将来的なビジョンがあって、ゴールがあって、そこに至るためのステップがあるのかどうか。あるとすればどういうビジョンを描いているのか。未来像、将来像、ゴール、これをお聞きしたいと思います。
山村
今の二つの質問に同じ答えがあります。短編アニメーションというものが、一つのジャンルとして世の中のカルチャーの中にきちっと位置づけられたい。そういう意味で世間から認知されていないところでの閉塞感、日本とか海外とかいった意味はないです。色々な国に行っていますが、逆に日本の方が情報も多く感心を持っている人も多いと感じている。以前感じていた閉塞感は徐々に減っている。演劇やコンサート、美術館に行ったり、いろいろな文化を楽しむことの選択肢の一つとして、短編アニメーションが気軽に観られて、それが一般的なレベルでも浸透しているという状況が僕のゴールですね。
土居
今のところ、それは果たされていないですね。僕のまわりは研究者が多いですが、みな、マクラレンやノルシュテインの名前さえ知らない。映画とか文学とか美術だったら、こんなビッグネームを知らないなんて恥ずかしいのでは、というレベルの人たちについて、、短編アニメーションに関してはすっぽり抜けちゃっている。そういう意味での閉塞感はありますね。
山村
はい、知識の共有という部分でも、もの凄く欠落しているので、まずそのベースを作るためにも、こういった活動や評論が不可欠です。今の状況だと情報や基本知識は全く抜けている。自分の考え方として、ある一つの一ジャンルを形作るものとして、単に短いフィルムというものではないところでの短編アニメーションという価値感が僕の中ではあるので、そこの形をきちんと見つけていかないと広く世の中には浸透しづらいのではないかなと思っています。

作資金、スタッフ
白岩
武蔵野美術大学の白岩です。アートアニメーションは自分の世界観を持ってこだわりを持って作られている。そういうアニメーションを作るための資金面、自分がメインになって制作するときのスタッフの集め方について教えていただきたいと思います。
土居
今日流したNFBの作品も、ラピュタでやっているエストニアの作品も、あとはロシアの昔の作品なんかも、制作者たちはお互いの作品を観たりしながら、他の分野の人たちとも交流している。たとえば、エストニアの昔の作品には、一流の現代音楽家たちが関わっている。ソ連の場合、それ用のお金もあったみたいですが。アニメーションを作っている方々は、どれだけの人を自分の作品に巻き込めるか、その道を考えていった方がいいと思います。現状では、自分とその小さな周辺で、全部やってしまう人が多いみたいですが。
山村
みなさんの身近な所で作品を見せ合ってお互いに話をすることは大切なことだと思う。資金面も、種類は少ないですが文化庁の助成金などの制度もある。(参考サイト:映画製作への支援、文化芸術振興費補助)短編アニメーションは、なかなか採算が合いにくいもので、僕自身20年以上資金面では苦労して来ていて短く答えられないです。イギリスのanimate!という助成金の場合、制作資金の一部として、テレビ放送権料を先払いという形で受ける物や、ヨーロッパには他にも全額の制作助成もあるようです。きちんとフィルムを作るためには、ある程度資金が必要なのでそれを踏まえて作らないと、単にアマチュアが作った楽しみの物は商品にならないし広く普及しない。さっきアートアニメーションという言葉を聞いて気になったのですが、映像、映画をつくるには配給とか商業的な側面が絶対にあり、ファインアートではあり得ないと思っています。
見せること、市場に載せることを考えて映画を作ろうと思ったら何百万、何千万のお金がかかる。作りたい人が増えれば助成の制度も逆に追いついて来ると思う。文化庁の助成も年に2回募集していますが、短編アニメーションでは少なく応募は毎回数本しかない。ところが映画の長編では60本とか脚本の応募がくるわけです。個人アニメーションの制作者とは、作りたい意識、意気込みがぜんぜんちがうなと感じた。
育機関で観せること
西田
高校の美術の教員をやっています。日々子どもたちと接していて、一般社会のアニメーションに対する感覚を肌で感じています。授業で山村さん、ノルシュテイン、マクラレンなどのアニメーション作品を鑑賞させる機会を作っていて、子どもたちは初めて見た、と言って喜びます。その初めて見たというのが引っかかっている。今の高校生、大学生のなかで漠然とアニメーションや漫画をやっていきたいと思っている人が多いと感じるが、その際のアニメーションというのが、こういった作家性の高いアニメーションに直結する環境にないということが引っかかっている。先ほどからのお話で、これから短編アニメーションがどういう方向に向かえばいいのかといった話でしたが、これからの次の世代または社会に対してどういう風に短編アニメーションに触れさせていくか。映画祭、動画サイトだけだと、触れる機会が少ないと思う。自分で観に行かないと観る機会がない。そういった問題が、これからの人材育成と作品制作において大きな課題だと思いますが。
山村
フランスの文部科学省が、年間に10本位の短編アニメーションをフィルムで買って、中学生や高校生に見せるというプログラムがあります。以前『頭山』を買ってもらい、今『こどもの形而上学』にオファーが来ています。その『頭山』の時の10本を見ると明らかに短編アニメーションというジャンルをわかっている人がセレクションしていると感じる素晴らしいラインナップでした。その年のいいフィルムを集めてそれを子どもたちに観せている。やはり教育という環境は大切だと思う。僕も機会があれば日本の文部科学省の方にそのような提案をしてみたいと思っています。そうすれば全国の子どもたちが短編アニメーションというものを認知できる。平成14年から文科省の中に漫画やアニメーションという言葉が出て来て美術の教科書に取り上げられる様になり、僕も中学の教科書に載せてもらっていますが、それでも観る機会はやはりないわけです。それはきちんとアニメーションを文化として意識してもらって、伝えていくのはある程度は政府もやっていく仕事だと思う。もし実現出来たら、その時代の最良の作品が観られるようなプログラムを組んでいけるようになったらいいなと思っています。
イラン
日本では聞く限りでは学校で作品を見ることは先生の独断、個人のレベルでのことだと伺っています。優れた物かどうかは別として、見せなくても子どもたちが観る物に対して、見せなければ自らは観る機会はない、接する機会のないものを、あえて観せる必要があるという判断の元で80年の半ば位から、そういうプログラムがフランスでは次々と小学校、中学、高校で、出来て来ました。短編のプログラムは少なく、長編のプログラムが多いですが、一学期に一回、一学年に3回観ます。
(2009.3.23 野方区民ホールにて)


Animations公開勉強会vol.0〜16mmフィルムでアニメーションを観る
■期 日: 2009.3.23(月) 18:30頃開場/19:00開演
■会 場:野方区民ホール(西武新宿線「野方」駅徒歩3分、地図はこちら)
■入場料:上映無料
■上映作品(当日の上映順)
山村浩二16mmフィルム作品から:『淡水』(1986)『天体譜』(1987)『月の小壜』(1988)
『おじいちゃんが海賊だったころ』(岡本忠成、1968)、『花折り』(川本喜八郎、1968)、『幽霊船』(大藤信郎、1956)、『ペン先の音 英語版』(ノーマン・マクラレン[出演]、1951)、『つぐみ』(ノーマン・マクラレン、1958)、『歩く』(ライアン・ラーキン、1969)、『ザムザ氏の変身』(キャロライン・リーフ、1977)
■主 催:Animations
ひとこと後記
今回の勉強会でいくつか今後の課題が見えて来た。特にこの会の大きなあり方について、いまだ手探り状態であるとはいえ、色々な視点で意識されてる事を考えていかなければいけないと感じました。
勉強会に参加された方のレスポンスで、トークの時間が短く、議論が深められなかったとのご意見をいくつかいただきました。こちらも参加者同士でのディスカッションを望んでいた部分もあったのに、ティーチイン的に司会進行者が答えるだけになったしまったのは残念で、今後の反省としたいと思います。
またディスカッションを潤滑に進めるために、事前に今回の勉強会で取上げたい質問や問題意識なのどのアンケートを行いました。大きな所では、ある程度の項目について今回話題にできましたが、しかしもちろん十分な議論とは言えないと思います。こちらも次回以降の課題とします。なお参考までに下記に事前アンケートのまとめを掲載しておきます。
今回はこれからの方向性を探る意味で、申込性の半クローズドの会としましたが、それでも多くの方に興味をもっていただき、今後の勉強会やこの会の活動に大きな期待を抱いていただいているようで、ここにあらためて積極的に参加していただいた皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。(山村浩二)
事前アンケートのまとめ
個人作家の活動について
・アニメーションでいかにして食べていくか。経済的自立について。
・個人作家はどのようにして技術習得・向上すべきか。
・観客に「観てもらう」意識の低さについて。
・作品を語る言葉を持つためにはどうすればいいか。
・作品を作ろうという瞬間はどんなときか。
・観客を半強制的に拘束する媒体で自己表現をする必然性はあるのか。あるとすれば、どう成長していくべきか。
・作家たちのアニメーションの現状の対する危機感や問題意識の低さ。
・技術力は向上しているが、言いたいことのない作品が増えているように思われる。
・作品受容の偏屈さ/広大な可能性があるのに……
アニメーション一般について
・アニメーションは映画の一ジャンルなのか。
・暗いだけで希望のない作品についてどう思うか。(『頭山』や『田舎医者』はユーモアを交えているが。)
制作とそれ以外の関係性
・アニメーションを取り巻く状況は過去と現在でどう違っているか。
・研究者はいかにして貢献しうるか。
・作家と評論家はどのような関係を持って互いに成長していくべきか。
・さまざまな立場の人たちが集まってできることは何か。
・プロデューサー、キュレーターの必要性について。
・評論にはどのような意義があるのか?
制作環境について
・フィルムとビデオ、映写機とプロジェクターとモニタ、アナログとデジタルの違いについて
・アナログとデジタルの違いについて
・現在、わざわざフィルムにする意味はあるか。
・最終的に落とし込むメディアを意識して作品作りをしているのか。
・デジタルメディアのための画面作りとはなにか。1pixel以下の情報は描く意味があるのか。
フェスティバル関連
・広島以外に国際アニメーションフェスティバルは必要か。
・フェスティバルで作品発表をしていく意味はあるか。
・各映画祭の選考作品の傾向/現在の国際コンペの傾向とそれに思うこと
上映環境について
・短篇アニメーションが劇場でかからない(身近なものにするためにはどうすれば?)
・動画サイト、フラッシュといったものが映像媒体に与える影響について。
・最近ブログで取り上げられているドン・ハーツフェルドが、日本で本国のように受け入れられる可能性はあるのか。もしくは日本で彼のような若手が出てくる可能性はあるのか。
・短篇アニメーションの認知度を上げるにはどうすればいいか。(一般人に短篇アニメーションを観ることの意義を実感してもらうにはどうすればいいか。)
Animationsに対する質問
・Animationsのみが評論をしている状況に危険性はないか。
・そもそもどのようなモチベーションによってアニメーションの世界に飛び込み、そのモチベーションをどのようにして維持しているのか。
・Animationsの今後の活動について。
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イベント終了後のロビーの様子。多くのレスポンスを書いていただいた。