イブリッジの糸
Muybridge's Strings(2011)

土居伸彰 
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山村浩二『マイブリッジの糸』(2011)

 『マイブリッジの糸』において動物が異質なのは、あの瞬間が動物と化したとき、自分が生み出したものでありながら、それがもはや私たちの手元を離れているからだ。記憶はどれだけ鮮明に思い出そうとも、あの瞬間そのものではない。しかし私たちは、現在を、過去を、未来を、そんなふうにしか記憶できない。馬や蟹にするしかないのだ。『マイブリッジの糸』においてアキレスは亀に追いつかない。今にも追いつきそうなのに、永遠に追いつくことはない。同じように私たちもまた、動物と化してしまったあの瞬間そのものに、たどりつくことはもうない。彼らは消えない。しかし、ただ傍らに佇むだけだ。
 私たちは分離を運命づけられている。『マイブリッジの糸』では雷が鳴る。生命はかつて巨大な雷が海へと落ちたときに誕生した。だから私たちの誕生は、すべてが溶け合う海からの離脱である。『マイブリッジの糸』において、母親と娘は海から姿を現す。その顔の時計盤は数字を変容させ浮遊させながら、いつしか「誰か」の顔となる。私たちは私たちとなるとき、無限の選択肢を捨てて私たちとなることを選んだ。誕生とは可能性の海からの分離なのだ。二人でいることは寂しい。なぜなら、私たちはもはやひとつではないということだから。

 クリス・ロビンソンは『頭山』以前の山村作品に「今を生きる」感覚を指摘した。その感覚は、散文的な日常が本当に持っている価値・意味を見出す子供の眼差しが受け止めるものである。惰性化した毎日のベールを剥がし、世界そのものと直接的に触れ合う子供の眼差し。『キップリングJr.』で少年は水たまりを見つめる。彼がそのとき体験している時間は、他の瞬間と差別化しえない惰性的な一瞬ではなく、あたかも世界と初めて触れ合ったかのような新鮮さを持つ、更新されつづける時間である。そこには過去も未来もない。
 しかし、「今」しか存在しない時間、それは、忘却のうえに成り立つ自己中心的なものでもある。『頭山』や『カフカ 田舎医者』にはその感覚はない。子供の眼差しは自分自身の存在を無意識的に世界の中心に置くことで成立するが、でもこれらの作品は、そんな自己中心性を砕き、私たちを宇宙のちっぽけな一粒に帰すからだ。存在を震わせるのだ。
 『マイブリッジの糸』の時間感覚は『頭山』以前に似ているが(それぞれの一瞬がいかに豊かさで余韻に溢れていることか)、しかし、明らかに『頭山』以後の時代を通過したものである。『マイブリッジの糸』が描くのは「今」の体験だ。しかしその「今」を味わう主体は、『頭山』以降に示された、無限の時空に漂う塵のような存在としての私たちである。『マイブリッジの糸』のぼやけて滲んだ輪郭線は、一コマごとに表情も存在の次元をも変容させている。それこそが、『マイブリッジ』が示す「今」なのだ。「今」ではない時間が流れ込む「今」。
 「今」にすべての時間が共存すること。それが教えてくれるのは、私たちは「今」でしかないということである。私たちは残念ながら過去でもないし未来でもない。私たちの存在はほんの一瞬の出来事でしかない。雷の一鳴りが生み出した、たったひとつの可能性でしかない。無数の瞬間と共存するとき、もっとも強く思わされるのはその事実だ。ほんの一瞬でしかない私たちは、いつかここを去らねばならない。残りのすべてを、自分ではないものに託しながら。



山村浩二『マイブリッジの糸』(2011)

 孤独に佇む母親が弾こうとするピアノのなかには、マイブリッジの馬がいる。あのときと同じように、たくさんの糸を目の前に、走り出す瞬間を待っている。ピアノの装置とマイブリッジの装置が重なる。時と場所を隔てたマイブリッジと母親が重なり合う。マイブリッジは母と娘の写真を撮っていた。そこに写された花束を母親に渡す子供の姿を、マイブリッジは、自分を取り残す遠い出来事として見ていたはずだ。彼女たちはマイブリッジにとって「動物」である。しかし、母親にとってみても、娘と同じフレームに収まっている時間は永続しない。だからその写真は、自分が子供に取り残されてしまうことへの予兆と悲しみを孕んでいる。取り残されること、それは入れ子のように無限に繰り返されていく。
 私たちはひとりぼっちで、でもあの瞬間に思いを馳せながら一人残されていくという点においてひとりぼっちではない。ピアノの前に座る母親は、おそらく何度も「蟹のカノン」を弾くだろう。あのときの感触を思い出すために。そしてその感触が、永遠に失われてしまったのだということ認識するために。おそらくそれは何度も何度も繰り返し確かめられてきたことなのだ。遠い昔、バッハが「蟹のカノン」を生み出したときから。そしておそらくそのずっと前から延々と。マイブリッジが撮影した写真として繰り返されたことあるだろう。そして、『マイブリッジの糸』というアニメーションとしても。そうなのだ、私たちの日常も、この些細な仕草も、孤独であるということも、それが生み出すちっぽけな感傷も、今ここにいる私たちだけで行われるのではなく、永遠に繰り返されてきたものなのだ。だから今のこの仕草には、過去、現在、未来のすべてが重なりあっている。今ここにはあらゆる瞬間が降り注いでいる。
 時間が過ぎていく。『マイブリッジの糸』の時間は懐中時計のように冷酷に時を刻み、私たちを砂時計の砂のようにこの場所に取り残していく。でも、あるとき、同じ場所に時計の針は戻ってくるだろう。ただし、私たちとは違う雷のもとで生まれた、また誰か別の人のところに。私たちのいないところに。その事実に私たちはどんな気持ちを抱くべきなのだろう? 私たちは永遠にあの瞬間を思い出し続ける。今に取り残されながら、ひとりぼっちになりながら、傍らに動物たちの存在を感じながら。永遠に流れゆく時間のなかで、私たちは何度も何度もひとりぼっちであることを繰り返す。だから蟹は生まれつづける。いつまでも、無数に、こぼれ落ちるようにして。






『マイブリッジの糸』公式サイト

Film Collection - National Film Board of Canada - Muybridge's Strings/Les cordes de Muybridge



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