イブリッジの糸
Muybridge's Strings(2011)

土居伸彰 
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※この記事は山村浩二『マイブリッジの糸』の合評企画のうちのひとつです。その他のレビューについては、こちら(イラン・グェン)こちら(横田正夫)をご覧ください。



動物たちが佇んでいる


山村浩二『マイブリッジの糸』(2011)

 日常的な光景に動物が佇んでいる――山村浩二のNFB作品『マイブリッジの糸』は、そんな数枚のスケッチから制作が始まった。『マイブリッジの糸』は19世紀の写真家エドワード・マイブリッジと現代の東京の母と娘の人生を交差させる。マイブリッジという著名人と顔かたちがはっきりと認識できない匿名の母と娘。男と女。過去と現在。アメリカと日本。多くの面で対をなすこのふたつのエピソードを結びつけるのもまた動物だ。
 山村浩二によれば、この作品における動物は、動物そのものでもなく、かといってアニメーションにはおなじみの擬人化された動物でもなく、時間を象徴するものなのだという。エドワード・マイブリッジは自分が発明した機器によって動物たちの運動を連続写真として記録した。山村はこのことが人類の時間に対する観念に大きな影響を与えたと語っている。このときはじめて、人類は過去を目の当たりにしたのだ。だからそこで撮影された動物たちは、ただ単に動物であるだけではなく、可視化された時間でもある。初めて目にされたそれは、おそらく見慣れない実在感を持っていたことだろう。『マイブリッジ』に登場する動物たちは犬や猫といった日常的な動物ではない。巨大で、質量があり、威圧感もあり、何を考えているのか分からないような、少々異質に見える動物たちである。
 マイブリッジは動物を記録する。自作の装置を誇らしげに撫でる彼の背後には、動物たちが自分の出番を待ちかまえている。母は娘とともにピアノを奏でる。その背後では、馬が砂時計の砂のようにして、ゆっくりと姿を現す。動物が時間であるとするならば、彼らは時間とともにあることになる。「今」ではない時間とともに。しかしなぜかその光景は寂しい。動物という過去がわざわざ回帰しているというのに。今の私たちを私たちだけに放っておかず、一緒にいてくれているというのに。

 私たちはときおり「今」をはみだした時間を生きる。私たち誰もがときおり生きる、特別な瞬間。物理的には他と変わらない平凡な一瞬であるはずなのに、特別な意味を持ってしまい、それこそ死ぬまで心のなかに留まりつづける一瞬がある。人生の意味、人生そのもの、永遠となってしまうような一瞬。私たちはたとえばフェイスブックに無数の写真をアップする。そこに捉えられたのは、一瞬が「今」をはみだしていたあの時の様子だ。私たちはその写真を通じて、楽しかったあのときを思い出す。でも一方で寂しい気持ちにもなる。思い出すということは、私はもうあの一瞬にいないということだ。至福のあの一瞬が過去になってしまったということだ。無数の写真という過去を目の前に、私たちは喜びとともに悲しみを覚える。
 『マイブリッジの糸』にも喜びと悲しみがある。まずは一人でなくなるという喜びがある。母親は子を身ごもる。マイブリッジは結婚する。しかしそれはかりそめのものだ。悲しみがやってくる。母娘二人が奏でる蟹のカノンの連弾がちょうど半分を過ぎたとき――つまり、前から弾いても後ろから弾いても同形の鏡像のような楽譜において、右手と左手、母と娘の役割が変化を迎えるとき――、アメリカと日本、過去と現在、その両方においても、何かが変わる。娘は成長し、母親の元を去る。マイブリッジは自分の妻が不貞を働いていたことに気づく。二人はともに、誰かと一緒にいたはずなのに、いつの間にかひとりになっている。生きる時間も場所も異なる二人は、同じように悲しみを抱く。



山村浩二『マイブリッジの糸』(2011)

 時間が絶え間なく流れつづけていくこと、おそらくそれが問題なのだ。だから私たちは、あの絶対的な時間を永遠にとどめようとする。
 それに長けているのは芸術家だ。マイブリッジが留めた絶対的な一瞬たちは、今もまだ私たちの目に触れている。だが、時間を止めようとするのは無謀で傲慢な行為だ。『マイブリッジの糸』ではドクドクと時を刻む心臓の音やチクタクと進み続ける時計の音が聞こえてくる。それらの音はときおり意識から消えることはあっても、響き続ける。だから時間をとめて、過去を永遠に留めようとするなんて、狂人のすることなのだ。マイブリッジは馬の運動を連続写真で捉え、自作の円盤に閉じ込めた。円盤が回ると馬はふたたび動く。その円盤はリボルバーに似ている。妻の愛人を殺したあの拳銃に。でもそれ以上に、目玉に似ている。あまりに澄んでいて穏やかなので、瞳孔の開いた狂人の瞳に似ている。
 芸術家は自分が捕まえた一瞬を普遍のイメージにしようとする。流れゆく時間に掉さす。自分の固定した一点にすべてを凝縮させようとする、徹頭徹尾自分自身を貫徹する試みだ。だが変わりゆく世界は自分の思い通りにおさまってくれない。心臓は鳴り時計は刻む。マイブリッジにとってはさぞかし腹立たしいことだろう。だからマイブリッジは時計を海に投げ捨てる。
 そしてマイブリッジはノアになる。放っておけば果てしなく刻まれていく時間。その濁流に呑み込まれてしまう前に、動物たちを自分の箱船に救いいれるのだから、その資格はあるのだ。だが、彼の箱船に愛する家族の姿はない。ノアは妻とともに箱船に乗り込んだはずだったのに、マイブリッジは一人だ。彼だけではない。動物たちもまた一匹ずつ。だからマイブリッジの救った世界は続かない。その世界は、彼とともに終わる。山村作品の男たちは、常に高慢で孤独で、破滅に向かう。『年をとった鰐』の鰐や『カフカ 田舎医者』の医者、『頭山』のケチな男……マイブリッジもまた、彼らと同様の運命を辿るのだろう。

 現代、東京の母親はマイブリッジが投げ捨てた時計を受け取る。女はマイブリッジが海へと投げ捨てた時計を、切り裂いた魚の腹から手に入れるのだ。過去の山村作品で女性がこれほどまでに大きな役割を果たしたことはなかった。『年をとった鰐』のタコや『カフカ 田舎医者』の娘ローザは、傲慢な男たちの犠牲になり、その運命に抗う術を知らなかった。その点でいえば『マイブリッジの糸』の母親も変わらないのかもしれない。女は子を生み、育て、そして子は自分のもとを去っていく。冒頭の印象的な手のシーン。マクラレンの『カノン』にオマージュが捧げられたあのシーンで、母と娘の重ねられた手は、その上下を変えるたびに時間を経過させていく。子の手は成熟し、大きくなる。しかし、母の手は変わらない。いや、衰えていく。時間を養分としてどん欲に吸収していく娘を尻目に、母は容赦ない時間の流れに身を削り取られていく。手を重ねあわせること、触れ合うこと、それは歓びであるはずなのに、その行為が重ねられると、意味が変わっていく。例の時計はここでも時を刻んでいく。前の一瞬はもう戻らない。そのことが重くのしかかってくる。あのときにまた戻るためには、マイブリッジのように時間を止め、逆戻しするしかない。
 母親にとっての甘美な思い出、それは娘と連弾したバッハの「蟹のカノン」だ。二人の手が交差しあうとき、そのフォルムは蟹に見えた。蟹のカノンを弾く蟹の手。他愛もないただの偶然かもしれないが、それにしてはよくできすぎているので、そのイメージは、母親の心に深く刻まれる。だからそれを再び弾いてみることが、あの時に戻る手段となる。娘が去った後、ただひとり残されてピアノの前に佇む母親は、ピアノの鍵盤に手を重ね、そして、連弾の記憶を探る。至福のときだったあの瞬間を。そこにはぼんやりと、あの瞬間の娘の手がイメージとして現れる。母親はそこに手を伸ばす。もはや彼女にとって、「蟹のカノン」は単なる楽譜でも単なる曲でもない。それは他の無数の瞬間、他の無数の曲とは明確に異なっている。良くも悪くも。それは歓びの再生であり、そして同時に、時が無慈悲に刻まれ、娘に取り残されたことの悲しみでもある。ひとりピアノを弾く母親の手は蟹を生み出す。それもまたもちろん、時間の凝固である。一瞬が永遠であったあの瞬間の。>2
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