イブリッジの糸
Muybridge's Strings(2011)

イラン・グエン 
Ilan NGUYEN  

※この記事は山村浩二『マイブリッジの糸』の合評企画のうちのひとつです。その他のレビューについては、こちら(土居伸彰)こちら(横田正夫)をご覧ください。


存在の変えられない儚さ

“If looked at from a fourth dimensional perspective that was outside of time, the apparently random events of our lives might have a pattern that was meaningful. They might even have a pattern that was beautiful, even the stretches that seemed ugly when we were living through them. All our personal disasters may have, all the time, been graceful brush-strokes in some unimaginable and transcendent work of art.”
Alan Moore, from Alan Moore’s Exit Interview (2007)

「時間の外に立った四次元的な視点から見られたら、我々の一生の、一見無秩序な出来事の数々が意味ある模様を伴っているのかもしれない。その体験当時は酷いものにしか見えなかった場面でさえも、美しい模様をも伴っているかもしれない。或いは、我々の生きた個人的な惨事の凡てが最初から常に、想像もできないある超絶的な芸術作品の中の優雅な筆力だったのかもしれない。」
アラン・ムーア、「Alan Moore’s Exit Interview」(2007年)より


Muybridge's Strings
山村浩二『マイブリッジの糸』(2011)

1.作品の要素
 山村浩二作『マイブリッジの糸』は、複数の曲線を交差させて短調な旋律をさり気なく奏でる作品である。その一つは、マイブリッジという写真家の人生と歴史的役割を題材に展開される、近年において一種の流行を呼んでいるカテゴリー、いわゆる「アニメーションによる記録映画」風のドラマという型を取っており、もう一つは現代の東京における母と娘の関係を、子どもを授かった頃から、動物界では親離れを意味する「自立期」即ち思春期、或いは反抗期までの数段階を簡素な形で、ごく控え目に描いている。
 その間に様々な動物の横から見た歩きや走りの、写生調の絵柄で追った動きそのもの、時計と潮流というモチーフの色々な登場の仕方、ダリなど超現実派たちを直に連想させる要素の象徴的な意味付け、亀の後を追ってもなお追いつくことのない男の走りなど、いくつもの副題も重ねて織り交ぜた構成を取っている。
 随所に導入され、段々と部分から全体へと引用されていく音楽はバッハの『蟹のカノン』、即ち主題そのものにずれや重複などの時間的効果を伴った規則性による遊びを特徴とする種類の楽曲である。

2.絵の様式
 本作の様式の基本は、究めて古典的なデッサン画であり、前作『カフカ 田舎医者』に見られたレイヤー重ねにより画面を埋め尽くすような情報量と不条理を表現するために駆使されたバロックな迫力と打って変わって、紙一枚に描かれた線による簡略の描法、洗練された素描の要素を活かしつつ、それに動きを与えることによって得た臨場感を一つの原点としている。
 なお、作中に絵の様式そのものに変化を持たせ、その度々に主観性というプリズムの焦点を合わせてきめ細かく工夫して、白黒から色の世界へ、写実的な描写から幻想的な次元へ(またはその逆の方向へ)の逆転、絵画的象徴主義による題材の挿入など、「絵」という個性を通した美の追求を自負する表現にさらに磨きがかかり、画風に広くも安定した幅が見られる。即ち、これまでの作品の絵的狙いを踏まえ、その集大成を試みながら、具象と抽象の折り合い、その相互補完の仕方や意味の持たせ方など新しい挑戦もあり、作者の歩みの中でも次なる展開を宣告しているかのようである。
 一方、山村作品でお馴染みの「騙し絵」ともいうべきアニメーション特有の視覚的トリックへの憧れもこだわりも一層強く表れ、「アキレスと亀」というモチーフの導入のように、作品の構成において、時には唯一の基準となる。

3.時間とその認識
 「時間とは何か」という問いかけは人類とともに成立し、様々に捉えられてきた哲学上の普遍的な問題である。
 中でも山村は、マイブリッジの写真における時間との闘いをはじめ、古代ギリシャの哲学者ゼノンによる逆説からカノン音楽まで、多くの要素を広く寄せ集め、各分野の専門家の立場ではなく、あくまでも一般人、即ち「素人」の立場で扱い、提示する。その姿勢が作品の思考にも効果にも確実な幅広さを与えている。
 自然界において、例えば生物としてのスケールなどによる時間と知覚の違いや、年頃によって認識されるその流れの速さ・遅さなど、周知のように時間とは相対的なもので実に多様な概念だが、ここで山村が『蟹のカノン』で扱うのは人間特有の認識で、時の輪のような展開や逆流など、動物界で観測できるような時間とは異なり、その捉え方自体が精神界に属する。なお、「距離」の要素として、アニメーションでしか表現できない時空の一つの総体、一つの体験を共有させる仕上がりである。

4.史実と創造
 「作品とは既成概念や価値観に基いた判断を下す対象ではなく、そうした判断をむしろ一旦停止させて、新たな理解を呼び、可能とする空間」とはよく使われる言葉だが、ことに歴史的題材を扱う場合、実在の人物を基盤に描く人物像なだけに、作り手側の倫理が問われることが多い。
 本作の場合、殺人行為を犯した人物を主人公に、その描写の仕方が極めて重い責任を伴うわけだが、自らの類稀な眼の鋭さが故に不幸にも気付いた現実に対する男の悔恨と犯行を作者が悪のままに描き、観る者にぶつけている。その結果、映像の仕組みに巻き込まれつつ、気にせざるを得ない。ここで再構成された一生の断面の連なりに触れる経験は、その人生までも受け入れて、肯定することにはならないだろうか、という類の問いかけを呼ぶ作品でもある。
 現にマイブリッジの犯した殺人は裁判で「正当的行為」と認められて処罰を受けることもなく、動きの研究に余生を費やすことができた。即ち、この如何にも「辺境地らしい正義」によってこそ後年の活動が可能になったことがその本質を明かす。というのも、写真による動きの分割と解析を通じて多くの謎を究明したマイブリッジの功績は確かに偉大ながらも「芸術的」な(即ちその個性特有の創造となる作品という)類の貢献ではない。このように伝記的史実から明確になる重要な区別も、本作から改めて引き出すべき問題意識の一つである。

5.作品の意味
 日本でも感情に独占的に訴えかけるアニメーションが多い中、それと同時に思考にも宛てられた映画は努力を求めるものだが、感性と理性の両方に同等に働きかけて、その両立という昇華に成功した作品は特異な価値を帯びる。
 本作にはそんな互いの響き合いと余韻が確実にある。もはや不条理を真正面から描くのではなく、方向を替えて一つの原理を様々な角度から照らす形式で取り組んでいる。嵐ヶ崎を越えた船のように、悲惨な現実を描こうとも、如何に物腰の静かな、落ち着いた眼差しで世界を眺め写して、表現するか。具象から抽象へ、過去から現在へ、親から子へ、容赦なき原理から僅かな希望へと、実に鮮やかで稀有な模様を成す織物のような美しさ。
 儚さを自覚し、その現実を大げさな強調としてではなく、落ち着いた目線で受け止め、その認識を観る者と共有する。人生には終わりがくるものだが、それを絶望の理由や嘆きの種にするのではなく、何かもっと大切なことに換えて、改めて考えさせる示唆に富んだ映像詩。
 そこで表現されているのは、「生物学的サイクル」の中で自らの役割を終えようとする本能的な哀しみとともに、「矢の如く」飛ぶ時の歯車を人間には止めようがなくとも、過ぎ去った時を逆行したり、巻き戻したりして何らかの形で取り戻し、やり直したい気持ちである。しかしそれは「願望を満たす」意味合いではなく、あくまでも精神界における夢想の自由として捉えている。

 また本作は同時に、父親から娘に宛てた手紙でもある。できるだけ身を引いた、最短で具体的な行動の客観的な描写を通じた忠告。「君は今、自らの母親に対してこういうことをしているのだ」と、気づいて欲しい現実を如何にも淡々と告げるその一通は、父という存在にしか表し得ない気持ちなのかもしれない。
 このように、最も個人的な次元と最も普遍的な次元が重なり合った時、人間の条件にさえまつわる一つの真実が作品の中で浮き彫りにされることがある。

 アニメーションという分野の批評に理論を最初に提唱し独自に確立させたアンドレ・マルタン(1925-1994)はアニメーションを「インストルメンタル[ルビ:器機的・楽器的]な芸術」と定義した。その言葉を借りれば、交響音楽で名曲の優れた演奏は触れる度にその味わいや輝きが深まるように、本作にも繰り返しの鑑賞を求めて、それによってこそ満喫できる「楽器的な映画の不思議」がある。







『マイブリッジの糸』公式サイト


Film Collection - National Film Board of Canada - Muybridge's Strings/Les cordes de Muybridge

 

山村浩二『マイブリッジの糸』