トロフの理想
Animations座談会4 < 1 2 3 4 >

トロフの人物描写

山村
彩ちゃんは?

中田
やっぱり、ものすごく上手いっていうことは感じるし羨ましくもあるんですけど、それが本当に作品にとってプラスになっているのかな、とは観るたびに思います。何でも描けちゃうからそのまま描いちゃうみたいな。あと、日本人だからなのかもしれないですけど、頭では理解できるけれども、本当には感情移入できない人物像が結構あって。宗教的な問題なのかもしれないですね。それからいちいち気になるのは、彼が描く女性像。

荒井
あー、それは同感。

土居
それはちゃんと理由がありますよ。あとで言いますけど。

山村
女性からの視点をぜひききたいね。

中田
全然違うだろ、って思うんですよね。

和田
何が違うの?

山村
女性として美しく感じないという意味?

中田
いや、美しいんですけど……

土居
行動が? 描き方が?

中田
存在としてこんなのありえないだろうって感じてしまいます。頭の中でつくられた女性像のような。幻想的っていえば幻想的といえなくもないです。声もむやみにキンキンしているし(笑)。とにかく違和感をものすごく感じるんですよ。短篇アニメーションの作家さんって、ペトロフが描くようないかにもきれいな女の人を描く人って少なくて、わざわざ不細工な女の人を描いているような人が多いんですけど(一同笑)。でも、むしろそっちの方がしっくりくるというか、とても自然で色っぽくも感じます。ペトロフが描く女性像への違和感と同じものを、子ども像にも感じますね。いかにも子どもっていう感じが。「そうかなあ…、そんな子どもいたかなぁ…」って。


『水の精-マーメイド-』(1997)

イラン
それはキャラクター全般についてそうで、純粋さというか、理想の追求というか。

中田
そうなんですよ、変にピュアなんですよ。

イラン
憧れなどが入っているのでしょうけど、結果としてキャラクターに薄さが出てしまうことも。

中田
すごくピュアなキャラクターを描こうとしているのに、説得力がなくて、なんだか媚びているような感じがしちゃうんですよ。

イラン
ストーリーとの矛盾もかなりあって、『春のめざめ』なんかはまさにそうなんです。あんな状況でピュアでいつづけられるのかどうか。土居さんが、「もっと色っぽいものをつくりたかったが却下されたという噂がある」といつか言っていましたが、面白いですね。どんなものが描きたかったのか、気になります。


想主義者ペトロフ

山村
土居くんが「理由がある」って言ったのは……?

土居
女性像については、ツルゲーネフの『はつ恋』を読むと、そこに出てくるジナイーダっていう女性というのが、『水の精』でもそうだし、『春のめざめ』でもそうですが、女性のプロトタイプみたいになっている気がします。ちなみに言っておくと、『春のめざめ』の冒頭に出てくる、男の頭を叩いている女の人がジナイーダなんですけど。おそらく、ペトロフにはジナイーダ萌えみたいなものがある。それがフィルモグラフィー全体に影響を与えているというのはだいぶ感じますね。

山村
なるほど。

土居
つまり、ペトロフが描いているのは現実の存在とは関係ないイデアとしての女性なんですよ。ある種の理想主義というのが、特に後半の作品では強く出てきていて。「これ以外ありえない!」という方向性が、ペトロフには見られます。

イラン
同世代の同じ国の、同じような状況におかれた殆どのアニメーションの作り手たちと、根本的に違う感じがしますけど。

土居
そうですね。

イラン
みんな、90年代に入って、いかにも暗く、無駄なまでに絶望的な作品を作り出した。それなのに、ペトロフは直線的に走りつづけている。

山村
そうなんだよね。現代性のなさ、時代とのズレというのは、僕としては欠点に映る。

作の解釈

イラン
文学と作品との関係ということもありますね。

山村
原作のセレクトに関しても、現代性とずれているな、と。

土居
『雌牛』という作品は、1930年代後半から40年代前半に書かれたものなのですが、それも解釈の仕方が19世紀的なんですよね。本人にとって都合の良い読み替えをしているんですよね。『おかしな男の夢』でもそうなんですけど。原作との差異というのは興味深いです。


『雌牛』(1989)

イラン
(DVD「アレクサンドル・ペトロフ作品集」の特典映像の)「自作を語る」で言っていましたけど、ドストエフスキーの原作をどうしても映像化したかったというのは、ある意味で作品の方向性を規定しているという面がありますよね。

土居
しかも原作のなかでも一部分だけを抜き出すようなことをしているんですよね。例えば、『おかしな男の夢』というのは、後半、「純粋な世界を堕落させてしまった!」という展開になりますよね。ペトロフの方だと、堕落させてしまったことについて、嘆くことしかしないんですよ。原作だとそれは違う。「堕落させてしまったんだけど、そんな彼らの方こそ私はより愛してしまう!」というような描写が入ってくるんですよね。そもそも、純粋無垢な世界に辿り着いた瞬間から、「私はあの現実世界を愛していたのだ!」みたいなことに気付いていて。ぐちゃぐちゃで汚い方向性も愛する、でも一方で、理想も求める。その矛盾した方向性自体はドストエフスキー自体にずっとあったものだと思いますが。

イラン
『老人と海』もそうだけど、矛盾がなくなっているみたいに思えるんですよね。原作に忠実になりすぎて。映像化するんだったら、違ったものにも持っていく必要もあるはずです。原作との関わりも、一方的になってしまうんですよね。

土居
その変更するという部分で、ペトロフの場合、『雌牛』からずっと一貫していて、「人間同士愛し合いましょう」みたいな理想像がまずあって、そういうところから解釈している。『雌牛』だと、最後の子どもの台詞で、原作を読むとあれが作文だということがわかるのですが、「牛さんありがとう」というような主旨のものがありますよね。原作だと……最初から話した方がいいですね。まず、両親は、子牛を売ることに関して、「牛さんごめんね」というような感情は一切持たない。雌牛がいなくなっても、「一番の稼ぎ手がいなくなってしまった、これから生活どうしよう」ということしか言わない。その対比で、子どもは牛に哀れみを抱いていて、最後に「牛さんかわいそう。牛さんありがとう。」というようような作文を書く。でも一方で、違った風にも解釈できる。「死んだ牛さんは肉の皮も骨も肉も全部使いました」というところなんですけど、こういう台詞をきいてしまうと、20世紀前半の、ありとあらゆるものが社会的に有益にならなければならない、情動などという余計なものは捨ててすべて使わなければならない、というような、牛というものを肉の塊として捉えるような見方を思い出す。すべてが商品になるような。『雌牛』の原作を書いているプラトーノフという作家が『土台穴』という作品を書いているのですけれども、それは社会主義の理想の国家を建設するために犠牲になっていく人々を描いている。つまり、人間というものが、国家建設のための部品として捉えられている。最後の作文は、おそらくそういう文脈でも読むことができるとも思うんです。子どもであろうとも、牛を肉の塊としてみるような思考の仕方が入り込んでいるという。生きものとしてではなく、商品として愛するという考え方が。

山村
でも、原作だと、単なる牛さんへの愛情物語になっているという。

イラン
そこでも、自分の方向に改変していくという。

大山
良い人そうだもんね、ペトロフさんって(一同笑)。

土居
だから、『雌牛』とか『おかしな男の夢』っていうのはほんとに素晴らしい作品だと思うんですけども、それは本人の意図とは違うところで評価しているような気もします。ノルシュテインがペトロフについて、「『雌牛』は、どうなるかわからないままにつくっていて、そこにこそリリシズムが生まれている。『老人と海』は、本人の思った通りのものができている」というようなことを言っていて、だからどうだ、とまでは言っていないんですけども……僕も最初の二作のぎこちなさにとても惹かれてしまいます。

山村
そこは問題点というかジレンマというか、作家は当然自分の思い通りに作りたいという方向性で進んでいくというところがあるんだよね。でも往々にしてこういうことがあって、未熟だったときの方が魅力があって、ある程度の技術的な完成の域に達してしまうと、観客の視点からすると、あまりにコントロールされすぎていて、魅力が欠如するということがでてくる。それはすごく怖い部分。作家としては当然、うまくなろうという目標がほとんどの人にある。アニメーションだからなんでもコントロールできて、ある程度の技術があればいろいろなことができてしまう。これはコンピュータを使ったアニメーションの批判にもつながってくるのだけれども、出来ることが見えすぎてしまうと、作品として面白くなくなる危険性というのがある。それがペトロフにもあるのかなあ……

術的な洗練のよしあし

土居
『老人と海』は作品としてどう評価しますか。技術的なものは評価するということですけれども。

大山
技術的なところは本当にすごいなと思うけど、もし自分にこれだけの技術があっても、こういう作品をつくるためには使わないだろうな、と思う。好きではないですね。

イラン
すごみが明らかになるほどに、無駄を感じてしまうんです。ありふれた言葉でいえば、表現と内容の不一致ですね。もっぱら表現の方に。表現がすごくなればなるほど、内容とのマッチが気になってしまうし、薄っぺらく思えてしまう。文学作品との関わりの変化ということもあるのだろうけれども、『水の精』までは、どちらかというと寓話性のある、神秘性があったり宗教性があるというのも含めて、寓話性があると言える。そこから、どちらかといえば、寓話じゃなくて、完全に小説的な色へ。小説のまっすぐな線に従うというか。それがアニメーションとしては残念な方向になったわけです。

土居
『おかしな男の夢』は、ドストエフスキーを好きな人が見たとしても、これはすごいな、と思うはずですよ。「こんな風にちゃんと映像にしちゃってるんだ」と僕も思いましたし。でも、『老人と海』を好きな人がこの作品を見ても、たぶん怒ると思うんですよね。

イラン
『おかしな男の夢』は、自分のものにしていくという葛藤が感じられるわけですよね。『老人と海』からはそれが感じられない。すごく丁寧に、派手に、贅沢に描くけれども、原作と比べてしまうと、映像化する意義はどこにあったのか。


『おかしな男の夢』(1992)

土居
『老人と海』も最初から自分が作りたくて作ったという話をきいてびっくりしましたけどね。

山村
僕もそうは見えないんだよね。

イラン
でもそれは実際の制作状況にも大きくよるものです。この作品のように国を越えての共同制作というのは非常に特殊なケースだと思う。作品をダメにしやすい状況です。アビ・フェイホというポルトガルの優れたアニメーション作家のNFBの合作をみても、レジーナ・ペソアの合作(『ハッピーエンドの不幸なお話』)をみても、それまでの作品と根本的に違う。国際的な規模での共同制作になった瞬間に、同じ問題を背負ってしまう。非常に説明的で、アニメーションの特殊性を犠牲にしがちな傾向が強いように見える。

山村
確かに共同制作の例をみてくると、だいたい作品としては悪くなってますよね。自分がつくりたいと考えて出発したとしても、どこかで描かされているという部分がある。

イラン
色々な国の人に見せる目的で、わかりやすくするという要求も出てくるという感じで。それでこそ言葉があんなにべらべらと出てくる。ペソアの作品もそうだし、とにかくしゃべらないといけない、沈黙は恐怖、みたいな感じになってしまって。『春のめざめ』もそうですね。黙ってる場面はあるのか、というくらいにうるさいわけです。

土居
『老人と海』はわかりやすいメロドラマにしかなってないんですよね。音楽もひどい。この作品のノーマン・ロジェは最悪です。ロジェだけの問題かどうかはわからないですけど。

山村
ペトロフはあまり音に対しては自分のイメージを持っていない人だなあ、という感じがしますね。ロジェと組んでからは完全に作曲家にまかせてしまっているし、それ以前の作品でも、音に対してのオリジナリティは感じられない。『雌牛』なんかは音の部分によってもっとよくできるのにな、と僕は思うんだよね。音楽で退屈にさせてしまっていて、退屈さを逃れようとすると今度はチープさの方に行ってしまうというか。そこはすごく残念だなあと。

イラン
作曲家とのやり取りが足りないという印象ですか。

山村
ペトロフ側からの必然的な音のイメージというのがないという気がしますね。

土居
『雌牛』は『話の話』っぽい音の使い方をしているところがあって、それはちょっと愛おしい感じもしてしまいますけどね。

山村
面白いんだけど、荒削りだよね。とにかく音楽で退屈にしている。集中力が削がれるんだよね。緊張感を増すべきシーンなのに、それがない感じがしちゃう。

土居
描き方に関してなんですけど、『老人と海』以降は、例えば海が真水みたいな海なんですよね。魚も生臭さがないし。老人の描写でも、原作だと、「主人公の顔には皮膚ガンを思わせるようなシミが……」みたいなことが書いてあるんですけど、アニメーションだと、すごくきれい。何日か航海したあとも、きれいなままで。

山村
生々しさがない。

イラン
きれいなものが目標というわけです。

土居
きれいなもの、つるつるしたものを目指している感じがあって。大山さんや和田さんが昔の作品の良いところとして反応していた、動きの質やゆらめくような感じというのが消えて、もっとはっきりとしてわかりやすいものに変わっていくんですよね。『雌牛』とか『おかしな男の夢』で夜を描くときって、何が映ってるかがよくわからないギリギリのラインで描くんですよね。でも、それ以降の作品は、明るいところと暗いところがはっきりと分かれてしまっていて。決定的な変質が起こった感じがします。


『老人と海』(1999)

イラン
最初の二作にある、共感を持てる絵の感じ。先ほど知恵さんに聞いたのもそうですが、技巧の問題で、自分の腕のレベルに限界があればこそ必死に工夫をするわけです。光の使い方、闇の使い方を含めて。限界をわかった上で、なんとか工夫しようという努力を感じるわけです。どうなるかわからないまま、表現とやりたいことを合わせようという必死さを感じる。そして、内容と表現が合っている印象もその結果です。それ以降は、丁寧になるし、技術的な限界の印象がなくなる。

山村
やっぱり手探りの段階ってのは見てる側もわかるんだよね。アニメーションが一コマずつ進んでいくという手探り感。それが一つの絵から感じ取れる。最初の二作というのは、本人のコントロールが及ばない部分で、あると思うんだけど。『水の精』からの変質っていうのは、本人が「描ける」と思っちゃってるんだよね。自信をもっているというか。疑りがないというか。

イラン
『水の精』では、ストーリーとの関わり方も含めてまだ工夫は感じるが。それまでの作品は、夢と現実を混ぜて、手探りで展開させていくけど、『春のめざめ』では、展開としては、そのモチーフがアニメーションでしかできないものではなくなって、むしろ非常にワンパターンな、フェード・イン、フェード・アウトの役割に止まっている。

山村
メタモルフォーゼの表現がそっちにしか使われてなくて。

イラン
乏しくなるわけです。

山村
構図にしても、探りがなくなってるんですよね。「こうすればこうなる」というのをあらかじめわかったうえで『老人と海』なんかはやってる。『雌牛』の冒頭とかだと、少年の光が画面の下から上に行って、それが画面の奥に行っている表現になっていて、そこに列車が走る。あれはすばらしいカットだと思うんだけど。必然的にここからあそこまで行かなければならない、それを探りながらやっている。ところが『老人と海』は最初からわかってる感じがしてしまう。そうなると、画面に対して何の面白みも緊張感も生み出さない。

土居
『老人と海』で許せないのは、海に入ったり空を飛んだりするカメラワークです。『老人と海』は、原作だと、カメラ(と言ってしまいますけど)がずっと老人に固定しているわけですよ。魚がかかっても、しばらくの間、その姿も見えない。老人の独り言のようなかたちでずっとすすんでいくわけですよ。で、そういう描写をしているからこそ感動的になるシーンがあって、マグロとの戦いの最中に、空を飛行機が飛ぶんです。それを見上げて、「あんな高いところから眺めたら、海はどんなふうに見えるんだろう」と想像するんですよ。自分の視線から離れるところをはじめて想像する。その描写が本当にすばらしい。もちろん、そこで彼が想像するものは、あくまで想像に留まっていて、どういうものなのかは不確かなままです。それなのに、ペトロフははじめから空を飛んだり海に潜ったりする。台無しじゃないですか。

イラン
ハリウッド的な映像処理ですね。だから、出来すぎたものになっていくにつれて、呪術性を失ってしまう。

山村
これはあまり面白くないことですよね。
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