トロフのロシア性
土居 ロシアの雑誌のインタビューを読んでみたんですけど、なぜいつも原作つきの作品を作るのか、という質問に、「自分で何をいうべきがわからない」というようなことを言っていて、基本的に自分なりのテーマというものはない人なんだな、と。その時々に「面白いなあ」と思ったものをもってくるのでは。
山村 一作目からそうだよね。一分間の課題を出されて、「ストーリーを探した」と言ってて。一分だったら自由で作ればいいのに(笑)。
荒井 物語があるとある程度の長さが必要になってきますよね。
イラン その手の、原作が付きものな作家も、ジャンルとしてはいるんですね。
山村 もちろんそれが悪いというわけではないよ。
イラン でも気になるのは、昔は元の作品と格闘していたのに、だんだんとその原作に降伏してしまう傾向です。
山村 原作との関わりや葛藤ってのがものすごく減ってきてるような気がするんだよね。乖離しているというか、ほんと必然性が減ってきている。ノルシュテインが、原作ものをやる人のいくつかのパターンの一つに、本棚から適当にとってきて、それで作る人がいる、と言っていて、これはペトロフについて言ったのかどうかはわからないけど(笑)、その言葉を思い出した。「そろそろヘミングウェイでもやっとくか」みたいな(一同笑)。本人のインタビューでは自分のやりたい企画だったとは言ってたんだけど、それが本当に描かなければならないという必然性のあるものだったのか。『おかしな男の夢』は、映像化したいっていう強い気持ちがあって、必然性もあったと思うんだけど。
イラン もう一つ、違うテーマですが、ロシアという文化的な特性が作品の中で色々なモチーフとして出てくる。原作にあるかどうかはわからないですけど、『雌牛』で非常によかったのは、子牛にミルクを飲ませる時。ロシアの風土、農業の知恵というものを一瞬の出来事としてちゃんと出しているということが、実に素晴らしい映像だったのです。『水の精』では、無国籍な方向へ転向している。宗教的かどうかはともかく、文化的なモチーフも多くあるが。作品を見ながら、全然違うフランスの作家を思い出して、「いかにもそれらしい映像だ」と思えてしまって…… で、一番気になるのは、ロシアをあまり知らない身として、それをどのように見ればよいのか。ある意味で現実味を帯びているけど、あれがロシアか、と思いつつも、「ちょっと待って」と疑問も出てくる。これはパターン化された、異国趣味めいた、絵葉書のようなイメージでしかないのではないか、と。わからないけれど。本物らしさでいう充分なインパクトをもっていないんじゃないかと。

『雌牛』(1989)
土居 ペトロフのロシア性ということに関して言っておきます。ちょっと長くなってしまうかもしれないですけど。ペトロフは一貫してロシア的な作家なんですよ。でも、その中で、「ロシア的」という言葉がさしている内容が違ってくると僕は思います。最初の『雌牛』や『おかしな男の夢』っていうのは、いわゆるロシア的なもの。現代のわれわれが抱く、例えばタルコフスキーやソクーロフ、ノルシュテインに感じるようなロシア性とストレートにつながっていく。でも、その後のロシア性というのは、19世紀的なものなんですね。19世紀前半のロシアというのは、貴族階級がみなフランス語で会話をしていたんですね。その当時論争があって、西欧派とスラヴ派という二派に分かれて、それは今後のロシアが目指すべき方向性の根底をどちらに定めるかという話なんです。で、[ペトロフに強い影響を与えていると思われる]ツルゲーネフという作家は、西欧派なんですよね。で、西欧派の人たちはフランスなどの文化が大好きで……ペトロフは自分の作画のスタイルも、印象派だと言っていますし。確かルノワールだったかな。だから、ペトロフの本質というのは、19世紀の貴族的で、西欧派に近い。西欧に憧れを抱くロシア人。ペトロフの作家性をよく伝えてくれるエピソードはもう一つあります。ペトロフは今、自分のスタジオにクロード・ロランの絵を掛けているらしいんですよ。その理由というのが、自分が好きだからってわけではなくて、「ドストエフスキーが人類の黄金時代を思い出させると言っているから」って言っていてここでも「おいおい」と思ってしまいますけど(笑)。で、人類の黄金時代としてドストエフスキーが思い描くものが、まさに『おかしな男の夢』で描かれる楽園なんですね。で、ノルシュテインはそれをどう想定しているかっていうと、ギリシャ・ローマの古典の時代なんですよ。小説の中では、主人公の男が飛んでいったのは、地球でいえばギリシャにあたるところ、とはっきり描かれている。こういう文脈でみると、ペトロフがなぜドストエフスキーのこの短篇に惹かれ、それなのになぜ読み替えたかという理由がわかってくる。
山村 今、ノルシュテインって言ったのは……
土居 あ、すいません、ドストエフスキーです。ロシア人の名前、ノルシュテインって言っちゃう癖があって(一同笑)。
イラン 最初の二作では自然に受けとめられるロシアのイメージが、その後転換しているように思う。『水の精』や『老人と海』では、どうしても実写映画との葛藤が気になってしまうんですけど。実写映画では、セットなどで時代を表現したりするわけですけど。そういった意味での、ロシアというイメージが強くなるんですよね。人間の行動や生活描写の中でロシアを描くというのではなく、パターン化された、ある意味ちっぽけなものになっていると思うんですけど。肉体的なつながり、実体験として知っているものが『雌牛』では受けとれるのに、その後は、空想というか、ある意味で、虚構というか、絵の中の世界というか。
土居 『雌牛』については、インタビューでも言っているように、自分の生まれた村を舞台をしていて、実体験の感覚に基づいているんですよね。でもその後は、いろいろな本で染み付いた19世紀的なものというのを描くっていう方向性に変わっている。そして、最初の二作については、山村さんがおっしゃっていたように、原作との葛藤があった。そこから逃れられないゆえに、ロシア性というものが強く残ったというところもある。でも、さっきも言ったんですが、解釈という面では、最初の二作から、その後の傾向というものははっきりと示されていたのですよね。
イラン でも、そういう方法をとったからといって、実体験の感触が表現できなくなるというわけではないですよね。ノルシュテインの『外套』をみてもわかるように。
土居 ペトロフって理想とかプロトタイプでしかものを考えられないんじゃないかなと思いますけどね。
山村 さっきの女性の描き方に関しても、原作の捉え方についても、時代の描き方にしても、ということなんですよね。
土居 やりたいようにやると……
山村 その点が露呈しちゃうと。
イラン 『冬の日』は完全に飛ばしちゃいましたが…
山村 あー、あまり言うことがないな、と思って。どうしようかな。
イラン まあ、比較的よかったんじゃないですか。短いだけに。
山村 彼の力の良い部分が出ている気はしますね。
作状況との兼ね合い
イラン あと、長さとの関係はどうですか?(初期に比べ)作品が長くなっている『老人と海』の長さと、以前山村さんからもお聞きした、作品そのものが要求するふさわしい長さというもの。一方、この技法がもたらす、描写の対象との密着な距離や描写の細かさ。それが時間を要する。必然的に時間的に長い方へいってしまうという… で、それももしかしたら、次の展開を考えて色々な人を育成して、共同で作っていくという考えでやっているとすると、だんだん見るのが辛くなっていくっていうのは長さにも関係しているのではないか。全作の長さを見てみると、10分ものから20分ものへ、そして30分前後のものになっていくわけです。そこには結局一つの、最近よく考える、短編と長編の違いがある。それは単純に尺の差だけではなく、やっぱり本当に完全に違う、別の枠として考えねばならないのではないかということです。シュヴァンクマイエルの作品もそうなんだけど、短編をうまく作れる人が長編はうまく作れなかったり、長編をうまく作る人は、短編が全然作れなかったりという、やっぱり根本的に違う課題である、と。で、そうすると、(ペトロフは)だんだん長編の方に近づいていくという動きを感じて、でもやっぱり短編の方が絶対に得意で、作れるという、そういう緊張関係みたいなものが出てくると思う。
土居 ペトロフ自体は、「自分は短い方が苦手だ」って言ってるんですよ。
イラン それはおもしろい。
土居 だからやっぱりずっと本人の得意な方には流れてるんじゃないですかねぇ。
山村 とはいえ、今イランさんが言った、短編と長編の違いのとこの補足をすると、やっぱり短編は縛りがないわけですよ、時間に関しては。だけど劇場長編だったら1時間、1時間半という決まった長さ以上を当然作らなければいけないと、そこに目標設定されていて、その中でうまくやれる才能とそうじゃない人があると。
イラン まあ、ペトロフはそういう意味では、そのような制限はなかったと思うんですけど。
山村 自分自身は、ちょっと長くなりがちっていうのは、たぶん構成力のなさみたいなところとか、短編として作る必然性がないので、ある種もう、こういうものでって依頼されれば、そこで仕事をしてしまう人なのかなという部分を感じなくはないです。
イラン じゃあ低迷ですか。
山村 うーん、ちょっとそう言ってしまえば悪い言葉なんだけど、そうかもしれないですよね。
土居 何かその、長編になることの外面的制約の話でしたけど、内側としての制約とかありますか。例えばケントリッジは、「長編だとどうしても物語が必要になってしまう」みたいなことを言ったりしたんですけど。
イラン 内なる問題としてが、やっぱり著しい気がするんですよね、ペトロフの場合は。こう、何と言えばいいのか。いろんな側面、絵のすごみ、音楽、いろいろ話がでたんだけど、結局見ているうちにだんだん、見れば見るほどあの芸の絶妙さが一瞬にしてわかるんじゃないですか。映画はジェットコースターではないんだから、ともかくこれでもかこれでもかと、やられればやられるほど、何と言うのかな……違和感ばかりが深くなっていく気がするんです。
山村 たぶん長編における今の課題の部分。ある種時間を埋めなきゃいけない感覚がでてきて、当然ここは格闘シーンで盛り上げなきゃいけないとか、ここは導入シーンでとか、そういう構成の部分でステレオタイプになっていかざるを得ないところがあって。中盤で退屈するからテンポのはやいエピソード入れようとかいう考え方になってきちゃうんだよね。だから物語を必ず入れなきゃいけない云々じゃなくて、それは当然短編でも必要だと思うし、長編でも物語なしでできると僕は思う。でも現実的には商業的なベースである長編には、絶対暗黙のうちにそういう縛りがでてきて、1時間半飽きさせない、何かこう、構成みたいな部分が要求されてて、『老人と海』なんかは本当にそういう作り方しているなっていう気がして……
イラン ハリウッド式の?
山村 ハリウッド的な作り方ですよね。
土居 そういう要求を満たしていると、ちゃんと生活ができるっていう……
山村 うん、彼もスタジオを維持できて、ロシアで成功しているわけで。
イラン あ、そういえば、コマーシャルも作っていますね
山村 あぁやったんだっけ。
イラン そう、コカ・コーラとかの。
土居 あんまりおいしそうに描けなさそうですけどねぇ……
山村 どこかの映画祭で見たなぁ。
イラン サンタクロースがでてくるやつですね。だからそういう意味ではコマーシャルにも、その芸の絶妙さはある意味では向いてるというか、むしろうまく合ったりしないか……
山村 うん、とてもマッチしてたと思う。はっきり覚えてないけど、コマーシャルとして成立してたような気がする。>4
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