ムーヴマン: 絵画とアニメーションの挟間で <1 2 3 4 5 6> | |
![]() 山村浩二(前編) 対談於東京日仏学院 2008.3.9 |
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![]() アレクシス・ユノー 最初に引用をしたいと思います。アンリ・マチスの手記です。「動きはそれ自体不安定なものである。彫像のように持続するものには向かない。例外はアーティストがアクションの全体を意識し、そのうちの一瞬だけを表現する場合である。」 今日、動きというものが随分と重要になってきています。オリヴィア・モーレイ=バリッソンが動きをどのように意識しているのか。彼女は普段、時間のなかに固定している時間のイマージュからイメージをつなげて、一つの作品に移行しています。このことについては昨日、山村さんも講演のなかでふれましたが。 最初に、このお二人がどのように仕事をしているのかについて質問してみたいと思います。芸術だけではなく、二つの文化の出会いが起きたと思うのです。このプロジェクトが始まる前に、それぞれの文化についてどのように考えてらしたでしょうか。 山村浩二 フランスには数回訪問したことがあります。『年をとった鰐』というフランスの原作のアニメーションも作りましたし、学生の頃はフランスの映画も多く観て、影響を受けました。ロベール・ブレッソンやジャック・タチといったとてもクラシックなものですが。ですから、文化的に豊かであり、美術という点でも、絵画の伝統、美術館……素晴らしい文化的な資産があるという印象です。 オリヴィア・モーレイ=バリッソン 私が18歳のときにみた美術書があります。江戸時代のものでした。私はとてもそれに惹かれました。若いときから日本の美術に興味があったのです。そして、禅についても興味がありました。禅の芸術です。線が非常に自発的であったこと、自然な線に惹かれました。そして現代日本については、あまり私はよく知りません。今でも発見を続けています。 ユノー とてもナイーブな質問ですが、文化的な違いがあるなかで共同作業をすることに不安はなかったでしょうか。それとも、そんなことは考えもしなかったでしょうか。 山村 そうですね、僕自身は言語的な心配以外は特になかったですね。もともとアニメーションを始めたのもカナダやロシアといった西洋の方の影響が大きかったですし、私自身も映画祭などでたびたび海外に行くので、文化的な違いというのにも慣れています。特に心配はありませんでした。 バリッソン 同じです。私は周りに素晴らしい通訳をしてくれる人がいるとわかっていましたから。一人だったらコミュニケーションの点で難しかったでしょう。前にも外国にはたくさん行っていますから、他国の文化に適応することに特に不安はありませんでした。日本に来て、東京がどのようなものか知りたいという感情の方が強かったです。 ユノー オリヴィアに質問です。どのように制作なさっていますか。あなたの絵画はどのようにして始まるのでしょう。かたちが浮かびますか、色が浮かびますか。 バリッソン 特に準備をするようなものではないんです。アトリエへと向かうことがすでに準備です。ドアを開けて、ダンスミュージックをかけます。それが準備です。そして、お香を焚いて、絵を描く準備を始めます。絵が始まるのは、最初、抽象的なかたちからです。そのあと、そこに人物が描き込まれ、なんらかの力動が空間に与えられます。 ユノー (バンド・デシネ作家の)ニコラ・ド・クレシーが木曜に言っていました。「下絵を描かないのは、線に力があるからだ」と。それはあなたについてもあてはまりますか。 バリッソン 私は直接に描かないのです。人物を操作するのが難しいので。私はモノグラビュールというシステムを作り出しました。人物を別に描いて、そしてそこから選びとります。人物を切り取って、背景の上に置くようになったのです。このテクニックを使いはじめて二年になります。一つの劇場をつくり、そして人物をその空間に配置し、一つの流動性を作っていきます。その流動性とは、空間のなかに生まれるものです。 ユノー 色彩はどうですか。 バリッソン 私自身はコラージュというやり方をとっています。明るい背景が必要になります。モノタイプを置くためであります。ですから、いつも背景は明るい色にします。時にはニスをかけます。多くの生命感が出るようにです。 ユノー 私たち素人にとって驚くべき瞬間があります。昨日『ミステリアス・ピカソー天才の秘密』を観ましたね。ピカソが絵を描き終えます。しかし、監督に「だめだ、やりなおす」と言います。(監督の)ジョルジュ・クルーゾーの方は驚いてとても心配します。フィルムがもうあまり残っていないからです。そこでピカソに「無理だ」と言います。でもピカソは「やる」と言ってやりなおします。時間がないのに、新しい絵を描きなおすのです。私たちには理解しがたいことです。一体、いつ絵は完成するのでしょう。どうやって終わりだとわかるのでしょうか。 バリッソン 一つのバランスがとれたときです。ビジュアルのバランス、がです。翌日またやってきて、またやり直すかもしれませんが、私にはこれで終わりだと分かるのです。 山村 いつ絵が完成するかというのは、絵を描いているときにはすごく意識していたのですが、アニメーションを作り出してからは、そういう意識は少ないですね。アニメーションのためにももちろん何万枚という絵を描くわけですけれども、それは、僕は絵ではないと思っています。最終的に、時間に連なって編集されたものがやはりアニメーションなのであって、それぞれの一瞬ごとの絵は絵ではない。絵はそれ自体では完成しておらず、時間軸で動くかどうかが問題なんです。それができるなら、絵は完成したといえます。フィルムというレベルで完成があるかと言われると、なかなかなくてですね……あるところで諦めて、編集も終わって音も入れて、完成になるわけですけれども。でも、完成してからでもまたやりなおしたくなります。なかなか諦めがつかないことなのかな、と思っています。 ユノー 確かに、オーソン・ウェルズやスタンリー・キューブリックなどは、編集で完成できなかったということがあります。本当に終わらない、という例は実際にありましたか。 山村 基本的には完成しないということはないですが、どのフィルムも、なにかしら新たに編集しなおしたいという部分が必ずあります。 ユノー オリヴィアの絵画の話に戻りますけれども、東洋の絵画のなかでは空白が必要です。あなたの今回の絵でも重要ですね。どのように構図を決めますか。 バリッソン 確かに、かなり空白をおきます。ですが、目にみえないような細かい細部も随分入れているんです。絵のまわりを歩き回ることでようやく発見できるような細かなものを。しかし私には空間が必要です。人物をより強く生きさせるためにです。線はまわりに大きな空白がある方が強いのです。 ユノー 見る人は絵の周りを動いた方がいいのでしょうか。 バリッソン 光によっても絵は変わります。光の戯れです。つやけしの部分や窪まっている部分がある。ですから、一つの絵に対して、随分と時間をかけてつくります。ですから、みる人の方も時間をかけてほしいとは思います。 ユノー 人物の重要性はわかりました。クレシーが先日言っていました。彼は自分のキャラクターを自然に作ると。オリヴィアはどうですか。自然と出てくるのでしょうか。何かを伝えたいと思うのでしょうか。 バリッソン たくさん伝えたいと思います。一種の対話のようなものがあります。現代に対する視点のようなものです。つまり、私が人物で描き表そうとするのは、夢の部分、社会の二重性、問いかけ、解決策をみつけようとすること、一人の人間が逃げ場をつくりだそうとすること……ちょっとうまく言えないのですが。 ユノー 人物の細部をみますと、人物は解剖学的にみて人間であると信じられなければならないでしょう。 バリッソン 確かにそういう社会的な圧力はあります。でも、解剖学的には正しくない人間も描いています。人がとっている身体の動きは必ずしも居心地がよさそうなものではないと思います。その人の社会的な地位によって、位置づけを決められているというところもあるからです。 ユノー メッセージという考え方は非常に重要だと思うのですが、例えば、映画のなかにはナレーションがあって、会話があって、ストーリーを伝えます。一方で、一枚の絵によってメッセージを伝えるというのは非常に難しいのではないでしょうか。 バリッソン 私が伝えたいのは感情です。はっきりとした感情であり、情緒です。 ユノー 何を通してでしょうか。一枚の絵があって、一人の人物が描かれているとします。なぜその人物がそこにいるのか……無意識を使って描いていると思うのですけれども、それでもさっき言ったような、強いメッセージを伝えたいという気持ちはあるのではないでしょうか。 バリッソン そういう気持ちはあります。自分自身の存在、自分自身の本質について耳を傾けようとしています……しかし、私にとって、そういう分析は非常に難しいです。
昨日、プリート・パルンのアトリエの写真を見ましたね。お二人は、どのようなアトリエで制作されていますか。 山村 決して広くはないです。東京で住むと住宅事情は非常に難しいものになります。欲をいえばもっと広いスペースが欲しいという希望はもっています。今のところは、それほど広くなく、50平米ないくらいの大きさです。基本的に、アニメーションの絵というのは非常に小さいので、机が一つあれば描けます。部屋は三つありまして、一つは絵を描くところ、その隣にコンピュータを置いて、スキャナーから最後の編集までできる部屋が一つ、もう一つが事務用のスペースです。 バリッソン 私のアトリエは非常に狭く、いわば女中部屋です。でも大好きです。とてもよく光が入ります。壁にはいろいろなことが描かれていて、屋根裏部屋なのですけれども、本当に好きです。いわば組織された無秩序がそこにあるのです。紙や新聞があって。切り抜いたり、コラージュしたり…… ユノー 混沌が重要なのですか。 バリッソン そうです。空間のなかでの移動も重要です。アトリエにはダイナミックなエネルギーがあります。私にとってはそうです。動き回れることが重要です。身体の動きからインスピレーションが出てきます。自発性が出てきます。絵を描くという動作は身体から出てくるものですから。アクションをすることで、あまり考えないで制作します。 ユノー 仕事をするときには音楽をいつもかけていますか。クレシーは「音楽をかけては仕事ができない」と言っていました。あなたの場合はどうですか。 バリッソン 音楽やラジオの文化番組をかけて仕事します。二つの違うチャンネルです。つまり、私はものを聴きながら絵を描くことができるのです。サッカーの番組はもちろん聴きませんけどね。面白い番組であれば、聴きながら絵を描きます。音が聞こえていても、私のクリエイティヴィティーには影響しません。ミニマル・ミュージックの音楽しか聴けない時期もあったのですが、いろいろと変化しました。フランス・キュルチュール、フランス・アンテールなどのラジオ局の番組をよく午後には聴いています。 ユノー 絵に音楽をつけるということは考えますか。頭の中でですが。 バリッソン それはありません。色から特に聴こえてくる音楽はないのです。 ユノー それでは今度は山村さんのアニメーションのお仕事について質問したいと思います。いつも、アニメーションの作家の方にする質問があります。勿論答えは毎回違うんですけれども、絵をアニメーション映画のために選ぶのはストーリーより前でしょうか? まず絵があってアニメーションが始まるんでしょうか? それともストーリーによって絵を選ぶんでしょうか? 毎回作品によって絵のスタイルが違うようですけど、いかがでしょう? 山村 そうですね。それは作品によって実際ケース・バイ・ケースなんですが、このところ原作があるものが多いです。そして、『頭山』(2002)の場合は勿論原作の後に、キャラクターの設定や場面の設定を考えていきましたから、絵が後に来ました。『年をとった鰐』の場合は、これは特別で、原作にショヴォー自身が描いた挿絵がついていました。これをもとにしていますから、まあ同時にスタイルがあったんですけど、ショヴォー自身も実は『年をとったワニの話』が最初に発表された時は別のプロのイラストレーターの絵がついていたらしいんですが、本人が気にいらなくて10年後に絵を描き直したということです。そして『カフカ』の場合もやはり、原作を如何にアニメーションにして行くかという制作段階のなかで試行錯誤していって絵が出来上がって行くというのがあります。 ですからアニメーションの絵というのは一枚の絵として出来上がるというよりは、そのストーリーなり、一つの時間の流れを語って行く中で、必然性が出て来て、そこで必要な物がだんだん見えて来るという場合があります。でもスタートの前には漠然としたイメージというのがあって、物語の前からスケッチしていた絵が何か有効に役立つということも度々あります。 ユノー 昨日、ユーリ・ノルシュテインとイワノフ=ワノの『ケツジェネツの戦い』について、そこでイコンが使われているということ、それがこの絵の目的にとてもかなっているとおっしゃいました。このように絵がそのストーリーの語る目的とあっているということはとても重要な問題だと思うんです。その絵とストーリーとの一致ということについてもう少しお話し下さい。 山村 そうですね。それはいつも意識していまして、僕はまず線というものに強く引かれるんです。線というのは勿論具体的なものを表す為に、なにかを形づくるために必要です。昨日も輪郭の話をしましたが。しかし同時に線そのものの力というものが絵にはあって、形づくられる以前の感覚的なものや感情的なものっていうものを、線自身は最終的に表現していると思うんですね。ですから線を描く画材を変えるだけでもニュアンスや意味とか、感じ取られるものがずいぶんと違ってきます。ですから、絵のスタイルにあった画材を選ぶということもすごく重要になります。 絵の雰囲気が物語にいかにあっていくのかということを選び取るのか大事なんだと思います。多くの産業的につくられたアニメーションは、ほとんど現代的なスタイルそのままでいろいろな物語を語るわけですけど、あれでは多くのものを失ってしまうという風に僕は感じます。アニメーションで使える絵というのは、絵画的なもの以外にも、漫画的なもの、よりグラフィック的なもの、もっと無機質なもの、といったあらゆる選択肢があります。そんななかで、どのような時代のどのような絵をどう使っていくかというのを、アニメーションの作家はやはり真剣に考えるべきだと思っています。 ユノー 例えば『頭山』のキャラクターがあります。それから『カフカ』のキャラクターがあります。線がかなり違っています。頭山のほうは曲線でまるいのに、カフカの場合は直線が多く使われています。これは異なる印象を出すためでしょうか? 山村 やはりカフカ自身の原作からの印象の中での感覚というものが絵に反映されていると思います。勿論それは当然語るべきもの、語られる世界が全く異なりますから、絵のスタイルは違ってきます。 ユノー 理解を深めるために質問したいのですが、どのような段階を通ってアニメーション映画が作られるのか、簡単にお話しいただけますか? 山村 そうですね。最初に当然どのような物語(もしくは世界)を描くかといったイメージを――それは非常に感覚的なものなので説明するのは難しいんですけどー小さなメモ帳にスケッチすることで始まります。オリビアが持っているような手帳を僕もいつも持ち歩いていて、そこに日々感じた事をイラスト、小さなメモとして残していくというところから始まります。 物語を選び取るとことについてですが、だいたい僕が今まで原作としてきたものは、10年、20年前に読んで出会った作品です。だからつい最近衝撃を受けた作品をアニメーションにしようということはあまりないですね。自分の気持ちの中でずっと何か残っていて何か引っかかる、その理由はよくわからないけれどその物語が気になる。多分その理由を理解したいということもあって、その物語を選ぶんじゃないかと思うんですけど。そういった自分との対話がずっとあるわけです。 次の段階、アニメーションの制作の段階になってくると非常にシステマチックになる部分も多いです。原作のイラストがあるなかで、それをどのようにビジュアル化していくのか。アニメーションの場合、動きを付けなくてはいけないということで、その為に必要なもの、不都合なものが色々出てくるんですね。それを試行錯誤しながら考えていく。そしてまあ、ナレーションのシナリオをまとめ直す。原作どおりとはいえ、映画の中で使える言葉というのをある種選んでいかなくてはなりません。 シナリオを作った後にはストーリーボードービジュアルと言葉の関係を描いていくーという段階があります。ストーリーボードがある程度まとまって来ると、今度は具体的な動きを作るために作画します。一秒間に24枚、もしくは一枚の絵を2フレームずつ撮って12枚のイラストが必要になってきます。基本的には全ての絵を描きたいんですが、アニメーターの協力を得て中割りーIn betweenですねーを手伝って描いてもらう事があります。 でも、先ほども言ったように僕は線にこだわりがあります。普通の商業的なやり方だと、アニメーターの描いた絵がそのまま画面に映るんですが、僕の場合は全ての線を自分でトレースしなおします。その次は色をつけていきます。鰐の場合は黒一色です。コンピュータでつければ簡単なのでしょうが、いちいち全てマーカーで色を塗っています。こうしたマーカーのちょっとしたむらですとかニュアンスというものが、やはり、言葉やストーリーでは語れない別の感覚を観客に伝えてくれると思うので、その辺はこだわって全て紙の上で描くというスタイルをとっています。 そして何千枚の絵の束が出来る訳でありますけど、そしてこれを全てスキャニングしていきます。一つのシーンもいくつかの絵に分けて描きます。動かない背景の絵は動かない一枚の絵ですむ。動くキャラクターは何枚も絵を描く。それ以外にも色々な効果をわけて作る。雪だとか、湯気とかそういったものは別に作るので、それぞれを別の素材としてまた取り込んでいきます。そしてこういったものを合成する為にマスクを作ります。これはフォトショップで作るんですけど。 絵が徐々に出来上がって来た段階で今度はナレーションを録音して行きます。『年をとった鰐』はピーター・バラカンさんという、DJや音楽評論をやられている、ナレーションのプロではないですがラジオの番組やテレビの番組を持っている方にお願いして、英語版と日本語版をやっていただきました。 音楽を新たに作る場合は作曲家と打ち合わせがあったり、効果音など色々な音についても決めます。ですからナレーションと音楽と効果音、三種類の音を最終的にはミックスしていくという形になります。 ユノー ありがとうございました。ストーリーボードのなかには、「2秒」だとか時間が書き込まれていました。タイミングはアニメーションにとってとても重要だと思います。リズムや時間という問題ですけど。その事についてお話しいただけますか? 山村 ストーリーボードの段階で大まかな時間は作っていきます。それはもうストーリーボードを書く前に長さの感覚はある程度あるわけです。それをストップウォッチで計ったりして、このシーンは何秒というのを割り出していって、例えばコマーシャルだとか最終的に30秒なら30秒、5分なら5分の番組と、まとめなくてはならない場合はストーリーボードの段階でかなり時間の調整をしておいて、無駄のないようにします。 インディペンデントで自由に作っている作品に関しては、すごくアバウトな時間の流れだけを作っておいて、実際は一枚一枚の絵を描いて、それをラインテストで取り込んだり、フィニッシュの絵を取り込んだりしたうえで、タイミングの調整をします。またもう一枚絵を入れよう、10番と11番の間にもう一枚入れよう、一枚抜いてみよう、とかっていう一コマ単位の絵の調整をしていき、それで一つのカットが出来て、最終的にカットが繋がった所で、カット同士の編集、順番や長さの調整をやります。音とのタイミングもありますから、僕は音を少し早めに録音して、絵がまだ80%くらいしか完成していない所で、音の素材と絵の両方を見ながら音のタイミングを調整しながら編集を進めるというやりかたをしています。 対談「オリヴィア・モーレイ=バリッソン&山村浩二」>後編へ続く |
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