ムーヴマン: 絵画とアニメーションの挟間で <1 2 3 4 5 6 >
リヴィア・モーレイ=バリッソン&
山村浩二(質疑応答)

 対談於東京日仏学院 2008.3.9
ユノー
最初の質問はまず私がします。山村さんへの質問です。オリヴィアは最初の作品で、メタモルフォーゼを使っていますね。これはエミール・コールやジェームズ・スチュワート・ブラックトンやウィンザー・マッケイのような初期の作家たちと同じです。アニメーションにとって、メタモルフォーゼのもっている魔術的な部分を出していくことは重要だとお考えでしょうか。

山村
アニメーションにとって親しい表現で僕もよく使うのですが、彼女がこういった形に落ち着いたのは、プラスの意味とマイナスの意味があります。最初、人物をどのように動かすかというアニメーション――例えば「歩く」などといった――の一般的なことについて話したのですが、「難しくてとても出来ない」と彼女が言ってきまして……
彼女の最初のアイディアに「変形」というものがありました。彼女のなかにそういったモチベーションがあるなら、こちらの方が向いているだろうと、この五週間でできることとして、メタモルフォーゼをより発展させる方へと方向性を変えたんですね。でも、僕も指導していて意外に思ったのですが、メタモルフォーゼさせるという発想はあるものの、具体的にどのように動かしていくかがわからない。アニメーションには中間の段階というものがあって、馬でも魚でもないどちらでもないものを描かないといけないんですね。ですけど彼女はそれを描くことが思いつかなかったわけです。デッサンが崩れてしまうような途中の段階というものがアニメーションにはあるという、自分では当たり前のことが必ずしも当たり前のことでないというのを、僕が知った、ということもありました。

ユノー
エミール・コールからもう百年たっているわけですけれども、それ以来のファンタスマゴリーが存在していて、それと同じようなイメージがアニメーションをまったく知らなかった画家のアニメーション作品に出てくることに驚きました。

観客1
オリヴィアさんに質問なのですが、自分の描いた絵が動くのを観て、これまでの自分の絵に対する考え方はなにか変わりましたか。

オリヴィア
影響は今後出てくるでしょうね。私は動かない絵も動くようにみるようになってきました。視線が変わったのでしょうね。絵を描くときに、人物が生きていてすでに動いていたような気がします。

作曲家
証言をさせてください。今回のプロジェクトの前から私はオリヴィアの絵を知っていました。その絵のなかにはすでに動きがあったのです。絵の中の人物の関係という動きです。最初のテストの作品をみたとき、私は驚きました。現実を描こうとしたのではなく、絵画の中に描かれているものがそのまま映し出されていたので。テストのものは、アニメーションというよりも絵画が語っていたストーリーだったと思います。その後の試みは、絵画と音楽との関係をより近づけるようなものだったと思います。

観客2
山村さんが講義の途中で、「コマとコマの間の描かれていない部分が大事」というマクラレンの言葉を紹介されていて、それは私は知らなかったんですけど、私がアニメーションを観て、なんでコマとコマのあいだが描かれていないのに動きを感じるのか、ということを考えてみたときに、描かれていない部分を頭のなかで補うとき、描かれているものよりもより美しいものを自分の頭のなかで生み出すことに惹かれるということがあります。アニメーションにおける描かれていない部分についてどう思うか、意見をうかがいたいです。

山村
アニメーションにおいてコマとコマをつないでいくなかで、どのように動きをつくりだすか。そのクリエーションの秘密を明かすという意味で、マクラレンはその言葉を言ったと思うんですね。総体としてのアニメーションというより、アニメーター的な視点というか……
アニメーションのなかの動きというのは、あくまでイリュージョンであって現実のものではなく、すべて目の錯覚のなかで起こるわけです。そこにまったく描かれていないものがあるというのが実写との違いで、現実の空間というのは途切れていないし、瞬間というのも存在しないといえば存在しない。いくらでも分割することは可能です。でも、アニメーションというのは、コマとコマのあいだには何もなくて、別々のコマがあるだけです。そのあいだに物理的な空間や時間は存在しない。でも、二つのコマのあいだの関係性のなかで、動きを作っていかないといけない。それがアニメーションなのである、というのがマクラレンの言葉の意味だと思います。
「間(ま)」という問題が出てくると思うんですけど、まったく描かれていないなかで想像力が働くというのもあると思うわけです。上げた手と下げた手を描いただけで、動作はないのだけれども、観る側が動きのイマジネーションをみるわけです。そういうふうに、イメージの広がりや想像力を掻き立てる部分があるのが、アニメーションの力ではないかと思います。それはある種、絵画であればフレームの外だったり、絵画の裏側に塗り込められたものだったりするのかもしれませんが。

日仏学院院長
オリヴィアに質問です。今回の展示で、三部作がありました。私はそれが毎日上げ下げされ、毎日描き加えられるのを観ていました。ところが、毎日だんだんにそれらが消えていきました。動きの分断、消滅がありました。今日見た段階では、中間的な段階とはまったく違うものになっています。今回のあなたの作品は、山村さんとの共同作業に影響を受けたゆえに変化したと考えればよいのでしょうか。徐々に違ったクリエーションのかたちとしてつくっていたのでしょうか。
山村さんにも質問です。山村さん自身はクリエーターであり、個人的な仕事をしていらっしゃいます。作品のすべての側面に責任をもってらっしゃいます。今回のように共同作業をするということ、四つの手を使って仕事をするということ――デッサン、絵の部分で他の芸術家の手を借りること、絵の部分を他の方にまかせて、アニメーション映画をつくるということ――はお考えになりませんか。

オリヴィア
今回、5週間にわたってプロジェクトが行われたわけですけれども、非常に特別なものになりました。昼間はあまり仕事ができる場所ではありません。ですから、夜こっそりとやってきて、明かりをつけて、スパイのように仕事をしていました。私は最終的に、成果を出したいとは思いませんでした。完成に向かうことはやめようと思っていました。三部作の三つのキャンバスという空間が必要でした。身体を動かして絵を描くことの自由のためにです。その見返りとして、絵画の場合、こうした自由な空間があることは幸運だと思いました。他の芸術的な媒体に比べ、絵画は本当に自由であるということを再確認しました。

山村
僕の方の答えですが、今回はアニメーションの基礎をどのように教えるかというのを自分自身で学ぶ機会となり、僕はアニメーション漬けの人生になっているわけですが、初めてアニメーションに接したアーティストの様子をみるというのは非常に刺激的になりました。やはりどうしてもアニメーションの見えない法則に縛られてしまうということがあり、彼女から出てくる自由さはとても新鮮でした。ですけど、僕が作品をつくっていくうえで、他の画家やアーティストとこれから共同制作をしていくか、といえば、それはないと思います。やはり自分が絵を描くというところからスタートしているので、絵を発想するというところから自分の手でやりたいと思いますし、アニメーションを制作するというのは非常に孤独な作業であって、自分自身と向き合う時間というのが重要になってきます。そんななかで、ポイントポイントでこのような刺激を受けるというのは創作のためのステップアップになるとは思っています。

観客3
山村さんに質問なんですけど、作品をフィルムに焼き付けていますか。それともデジタル上で編集なさっていますか。あと、タイムシートを学ぶ際に、一秒が24コマであるフィルムの表現を学べるのか、それとも、扱いづらいところがあるので、アニメーションを作る際にはコンピュータ上でやるほうが、仕上がりも早いし説明もしやすいのか、ということを訊きたいです。

山村
今日の上映では残念ながら全部DVDなのですが、すべての作品は35mmのフィルムに焼いて完成させています。ですから、先月まで有楽町でかかっていたときはフィルム上映でした。やはり、フィルムの色の美しさはどうしてもデジタルではかなわないところがあって、現状で最高品位で観てもらうなら、フィルムで仕上げるのが一番です。タイムシートのことですが、僕自身もコマーシャルやテレビの仕事をしていて、あるとき24コマのタイムシートから30コマのものに切り替えました。それはビデオ用のものなのですけど。慣れるのに時間がかかりましたけど、実は『頭山』は1/30のタイミングで作った作品です。それ以降は、またフィルムでつくっていきたいと思って、また1/24に戻したんですけど。現在ではありがたいことに、ハイビジョンがテレビの業界でも標準のフォーマットになってきていて、ハイビジョンだと1/24でも再生できるんですね。ですから、ハイビジョンで仕上げるのであれば、1/24で学ぶのが非常に有効なことで、1/30というビデオのシステムは今後いらなくなってくるのではないかと思います。

観客4
『年をとった鰐』でも線を自分で描いたり、にじんだ線を使っていたり、潜在的なものや偶然的なものをすごく大事にしているように思ったのですが、それは描くときの話ですよね。音や編集などの次元で潜在的なものや無意識のものを大事にしているということはあるのでしょうか。

山村
編集や音の作業をしているときは、作品自体からもうちょっと距離をとれているので、無意識的なものを入れるとすれば、実験映画的なものになるのかなと今想像したのですが、ただ、僕はいつも瞬間のひらめきだったり、あらかじめ用意しておいたものになるべく囚われないようにしようと考えていて、音の場合も、絵コンテの段階からイメージをするといいましたけれども、音のディレクションの段階でも、現実に起こっている音に対して、また新たななにかが生まれないだろうか、という態度で意識的に臨んでいます。ですが、タイミングを詰めていく編集の段階では、音と絵を見比べながらコツコツと丁寧に仕上げていくしかないので、無意識的なものが入る余地はあまりないのかもしれないです。

観客5
私は最近山村さんのファンになりました。劇場で最初観て、今日は二回目なんですけど、山村さんの作品のなかで、観た後に面白さが残るというのが魅力なんですね。例えば『カフカ 田舎医者』だと、特にそうする必要もないのに、頭が急に伸びたり縮んだりします。そういった面白さというのはたぶん、アニメーションにしかだせないもののような気がします。そういうことは意識してつくられているのですか。もし意識しているとすれば、教えてもらえるようなものではないと思うのですが、どうやってその感覚やセンスを身につけたのか教えてください。

山村
面白いと言っていただけて嬉しいです。意識的にやっています。アニメーションにとってユーモアというのは非常に大切だとだんだんと理解していったんですね。頭で考えたギャグやジョークではなくて、動きや間で感覚的に笑いがとれる。言葉やドラマが理解できない子供が喜んだり、人の心を揺さぶるなにかがあると感じたので、とても大事にするようになったんです。自分の感性の部分なので、いろいろな蓄積のなかで学んできたのだと思います。ですので、どこで習ったのかというのはちょっと説明しきれないのですが、その面白さというものを感じてもらえれば、こちらとしては嬉しいです。

観客6
対話・交流ということについて質問させてください。ミシェル・オスロさんについて考えてください。『キリクと魔女』、『アズールとアズマール』、『プリンス&プリンセス』があります。北斎から影響を受けています。ミシェル・オスロさんとの関係があれば、教えてください。

山村
ミシェル・オスロさんの作品を知ったのは自分が作家となったその後のことですから、クリエーションの部分で影響を受けたということはないのですが、やはり、現代の優れたクリエーターの一人として大変尊敬していて、世界的な成功を収めているという点でも素晴らしいと思うのですが、彼の独特の美学というものには大変共感します。僕の美意識とオスローさんの美意識というのはまったくイコールではないのですが、やはりそういった独特の美意識をもって作品に立ち向かう作家がいるというのは本当に素晴らしいことですし、自分の美というのをきちんと確立していきたい気持ちがあるというのは、勇気をもらえることです。それ以外のアニメーション作家との交流という点でいえば、非常にたくさんの作家から影響を受けていまして、昨日の上映で選んだ作品の作家というのは、自分にも非常に良い意味で影響を与えてくれた人たちですし、あの三倍、四倍と作家の名前を挙げることもできます。

観客6
映画という考え方だと、お話があってキャラクターがあって、ということになるでしょうが、アニメーションだとディズニーのように、はっきりとしたキャラクターがいて、ある問題を抱えているのが、最終的には解決するというお話がある、という形式があって、ジブリの作品もそれに近いと思います。山村さんの作品というのは、最近の三部作のように原作があるということになると、いちおうお話がある。アニメーションとしての楽しみとすれば、『こどもの形而上学』のようにメタモルフォーゼや、キャラクターの現実ではありえない動きを楽しませるものもある。でも、ああいう作品というのは、永遠とそれが続くと、観客がついていけなくなるということもあるんじゃないかと思います。ストーリー性とアニメーションの動きや絵自体の魅力、その兼ね合いのどちらを追求するかで、作品自体がだいぶ変わっていくのではないかと。例えば、(フレデリック・バックの)『木を植えた男』や『大いなる河の流れ』は、プロデューサーの意図で環境問題的なテーマが強くなってしまって、作品が、環境というテーマで語られることが多くなって、作品自体の魅力が語られなくなってしまうという問題があると思うんです。個人作家としてやっていかれるなかで、山村さんはそのへんのバランスはとれているんじゃないかと思うんですが、アニメーションをつくるうえで常に問題になってきますでしょうか。

山村
確かにおっしゃるとおりでして、僕が大きな影響を受けたものの一つとして、カナダのNFBの作品があって、昨日も観てもらいましたが、その多くはストーリーを含まない、造形的な魅力を追求することが多いわけです。その面白さにも目覚めましたが、それだけでは映画としてのアニメーションにならないということに気付いています。ストーリー性と造形的な面白さのバランスがとれたものというのが、これだけたくさんのアニメーションが作られているなかで、少ないということにだんだん気付きはじめて、その両方の良さを取り入れていきたいなとは考えています。バックについて触れられましたけれども、メッセージ性については、アニメーションは非常に利用しやすいメディアですが、そういったものが強くなっていくと、自分が考えるアニメーションの芸術性としての面白さからもまたずれてしまうので、そういったものははぐらかすように、表にでないように、気付かれないように作品をつくるようにしています。メッセージ性やテーマ性があまり表に出てこないものを無意識的にも好んでいるような気がします。

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